エドワード親書 2005年5月号
 
 お話したいことが少し溜まってきたし、ポルトガルでのことも報告したいので、久しぶりに親書にまとめて書いてみます。


 日本とポルトガル、どんな歴史があったかご存知ですか?1543年、ポルトガル人が鹿児島の種子島に来たのが始まりです。その時、鉄砲を持ってきたことが広く知られていますが、ヨーロッパからのいろんな文化も始めて日本に届けたわけです。そしてその6年後の1549年、ザビエルがキリスト教の布教のため、ヤジローに連れられて鹿児島にやって来たわけです。ザビエルは、今はスペイン領になっているナバラ王国の公子でしたが、司祭になるものの高位聖職者への道は歩まず、東洋への布教に全生涯を捧げたのです。それを応援したのはスペインよりむしろ、イエズス会を中心としたカトリック界や、ポルトガル国王ジョアン3世たちでした。

 さて、ザビエルの布教活動は、その後日本にどのような影響を与えたのでしょうか?
 その象徴となるのが天正遣欧使節でしょう。帰国してからの4人の人生が、それを如実に物語っているように思えます。4人はだんだん離ればなれになっていって可哀想だったなあ、で済ますこともできますし、4人の心の中をじっくりと考えてみることもできます。忙しい現代人は前者で済ませて、あまりもっと深いことや、その先に広がる問題などなかなか考えられません。まあ、今を生きる自分で必死なため余裕がないのが実状でしょうか?
 しかし、だからこそ私達は歴史から何も学べないで、形を変えて同様な過ちをいつまでも繰り返しているのです。どう思われますか?

 ザビエルの影響を受けて渡欧した4少年の帰国後の人生は、闇に包まれた観がありましたが、だんだん解明されてきました。みなさん、ここでご一緒にもう少し考えてみませんか?オペラ「忘れられた少年」はひとつのきっかけかも知れませんが、同時にひとつの指標でもありたいと創作されました。少年使節ゆかりの市町村が「町興し」にとローマ法王に今の若者を謁見させるなど、努力していらっしゃいますが、私達のヨーロッパ巡演のねらいに、もう一度御着目下さい。

 400年以上前に少年使節が訪ねたアジア・ヨーロッパ各地の町に行き、その町の合唱団や舞踊団、そして歌手の皆さんと共演することにより、彼ら4少年の大きな旅、雄々しい戦い、喜びと悲しみを、オペラを通して互いに理解し合いたいのです。それが真の国際交流につながることを、過去25 回の欧州公演で私達は実感しているからです。


 では、今回のポルトガル準備旅行の報告をしましょう。
 ポルトガルのリスボン空港に着いたのが5月16日の夜9時50分。僕にとってはとても懐かしい空港です。そこから、タクシーで小林清氏が待つホテルに向かいました。小林清氏は柔道9段で在ポルトガル47年になられ、歴代のポルトガル大統領や先日帰天されたローマ法王ヨハネU世も彼の柔道のお弟子さんだそうです。先月80歳になられる誕生日は、現大統領サンパイオ閣下が150人の賓客を招いて大パーテイーを開いて下さったそうです。今までの十数回のポルトガル巡演で彼のお世話にならなかったことは一度もありません。それほど大切な大切な方です。今までポルトガル巡演に参加した人で彼のことを知らない人はいませんが、今回参加される方もどうぞよく憶えて置いて下さい。

 さて、そのタクシーの中。運転手さんが話し好きな方でいろいろ話していましたら、柔道にも興味があると仰るので、小林清氏を知っているかと聞いたら、「勿論ですよ、あの有名な方でしょう?」と答えられました。まあ、タクシーの運転手さんにまで知られた方です。
軍隊や警察学校でも指導されていたので、先日、高速道路を200キロ以上のスピードで突っ走られました。途中で2回捕まっても、乗っておられるのが小林先生と聞くと、警官は失礼しました、とすぐ行かせてくれたそうです。皆さん、真似をしてはいけませんよ。

 そして、ホテルに着くと、小林先生がダヴィッド・フェレイラという主税局長をしていた弟子と、ジョアンというパイロットを同行して迎えてくれました。このダヴィッドも最初に僕を小林先生に紹介した気のいい男ですが、3年前奥さんと離婚して寂しいらしく、誰かいい日本人を、と願っているようでしたが、誰か興味ありますか?ジョアンは資産家で著名人らしく、その上照明など舞台のこともできる面白い親切心丸出しの方でした。
 一般にポルトガル人は人なつっこいのです。皆さん、ポルトガルで会えるのをお楽しみに。

 翌日は、小林先生の診療所で相談の後、日本大使館の早川文化担当官と、そして日本人会の長谷川氏と支援金のことで相談。支援金はあまり期待できないと分かっていたのですが、長谷川氏が、突然先ほど来たのですが、とメールを見せて下さり、それにはポルトガル唯一の国立オペラ劇場であるサンカルロス劇場の運営委員さんが、サンカルロス劇場で公演しないか?お会いして相談したい、と書いてあったのです。驚きました。非常に名誉なことだからです。

 その後、やはり僕が非常に親しくしてきたエストリル音楽祭の芸術監督=ピネイロ・ナジー氏と、懐かしいトウリンダーデ通りのレストランで待ち合わせ。このナジーさんへのおみやげを大使館に忘れてきたので取りに寄りました。早速のポカ!誰かみたい、ですね?そのレストランでセトウバル合唱団のゴンサロ氏も同行して紹介されました。ゴンサロさんはナジーさんの弟子でもあり、まだ若いので驚きました。そしてナジーさんとすぐにサンカルロス劇場のことを相談したのですが、サンカルロス劇場の内部事情を教えて下さった上協議し、やはり今回はこちらの準備が間に合わないので遠慮することにしました。そして、僕のダイダイ好きなヴィーニョヴェルデ(緑のワイン)を飲みながらポルトガル料理を頂き、個人的なことなど、特に彼が数年前に来日して、東京、熱海、西海、大島、波佐見など日本各地を加代子とジョイントコンサートをしたときの思い出などを楽しく語り合いました。
 食事の後、エストリルに向かい、今回新しい公演会場に内定していたサレジオ教会を下見しました。500人くらいが入れる音響効果に優れた、オペラにも使いやすい会場だったので、了承しました。カシュカイスの劇場を使う話もあったのですが、客席数が少なく、こちらを薦めることにしたそうです。

 さて、さて、これからです。お話ししたいのは。
 ナジーさんの奥様で美しいドウルセさん。ピアノ教師でもあるのですが何より詩人です。彼女はいつもそうなのですが、平気で僕に抱きつき、取った手をずっと離そうともしません。そして自らの詩を朗読し、何度でもキスを。ナジーさんは恥ずかしそうに席を外したり、照れながら2人の間に入ってきたりーー。日本ではまず考えられない光景でしょう。子供同士なら何てことはないのでしょうが、照れ屋の日本人の大人はねーー。
 でもこういうのが自然なのかなあ、とも思います。皆さんはどう?
 熱い抱擁のため、かどうか分かりませんが、ナジーさんに駅まで送ってきてもらってたら、ドウルセさんのお弟子さんのお母様が、忘れ物、とデジカメを。2回目です。超ポカは僕。

 リスボンのホテルに戻って小林先生のお仕事が終わられるのを待っていたら、診療所の皆さんと、明日僕をシネスに運んでくれるデイアスさんがご挨拶?に。皆さんやはり懐かしい方々です。
 皆さんとはお別れし、小林先生が食事でもと僕をお誘い下さり、何がいい?と仰るのでサルデイーニャ(鰯)でもとお聞きしたら、「まだ時期がねーー。でもそこらの店に入ってみますか」とホテル近くの何の看板もない倉庫のような店にご案内。しかし、入ってみるとびっくり。店内、明るくにぎやか。そして、所望したサルデイーニャがあったのです。時期が早かった割にはおいしい、と何匹もこの仙人が平らげてしまいました。まあ、人によっては何十匹も食べるそうですが。飲物はまずセルベージャ(ビール)、そして赤のハウスワイン。ヨーロッパではだいたいどこの店にもその店の特製ワインが置いてあるものですが、実においしい。小林先生も、奥に大切にしまい込んであるのよりおいしいね、とご満悦。

 そして、やはり先生と久しぶりに人生談義。世界観、日本観を率直に話し合いました。日本が忘れてきている暖かい心が、ポルトガルには残っている、と先生。実は、先生のことは前述したとおり有名なので、いろんな方が頼っていらっしゃる。しかし、例えば彼が日本に帰ったとき、そのみんながどこまで先生のご好意に応えられているか、疑問です。申し訳ないですね。柔道一本で世界を一匹狼のように旅し実力で名声を勝ち取り、ポルトガルが気に入って定住し、日本とポルトガルの友好のため、どんなに貢献されたか分からない方です。みんな、どう思いますか?

 翌朝、カトリックの聖母奉献修道会のリスボン修道院に伺い、セトウバル公演の支援をお願いしてきました。聖母奉献修道会のヨーロッパ管区本部がセトウバルにあり、僕も2度ほど伺ったことがあるのですが、日本管区長であるシスターのご紹介で会ってきました。話せば長いのですが、この日本管区長が加賀乙彦氏から紹介された方で、僕の未完のオペラ「残された微笑み」のモデルとなった方です。

 そしていよいよ、運転手のデイアスさんとシネス市へ。デイアスさんはインド系の方でアフリカのアンゴラの石油関係の会社に5週間毎に行き来していらっしゃいます。たまたま、リスボンにいらっしゃる時期だったので、ご協力下さいました。シネス市ではまず、セリア・フェレイラご夫妻が市役所に私達を案内なさり、マヌエル・コエリョ市長さんと話しました。そこにカルロスさんというイベントプロヂューサーを呼ばれて、そのカルロスさんと候補の会場を見て回りました。消防会館が客席500人くらいのところで音響もよく、決めかけたのですが、カルロスさんがお城の方がいいというので、最後に行ってみたらなるほど面白い。城壁に囲まれたスペースで、立ち見なら6000人、座っても2〜3000人座れるところ
だそうです。僕もこちらの方がいいね、と賛同しました。しかし、今年のお城でのフェステイバルは7月28日から始まる予定になっていて、こちらが提案する24日なら4日前にステージなどを組み終えねばならない、それが出来るかどうかで、公演はお城になるか、消防会館になるかが決まります。カルロスさんの連絡を待っているところです。

 そしてゴンサロさん達が待つ、セトウバルに。当初、マトリッツ教会という話だったのですが、市が会場提供を申し出てくれたので、ルイス・トウデイ劇場でまず下見を。待っていたのは、ゴンサロさんの他、正指揮者のラウル氏、それに主要メンバーのアンドレとアナ。デイアスさんとはここでお別れ、ご苦労様でした。さて、キャパ1000人の劇場で、その舞台監督さんと打ち合わせ、諸条件がよく、この会場に決定。続いて宿泊予定のホテル・アランゲスに予約に行く。待っている間に、セトウバル独自のモスカテル(ポルトのような食前酒)を試飲。おいしい、実に。
 練習前に夕食。またしても監督溺愛のヴィーニョヴェルデ。そしてエビ料理。セトウバルは魚介類が新鮮でおいしいと有名なところなのです。
  しかし、のんきに食事などしていられず、あわてて大切な、何より大切な練習へ。待っていたのは30歳前後の20人ぐらいの合唱団。簡単な挨拶の後、直ちに練習。思っていたとおり、柔らかく自然な発声で、好感が持てました。アマチュアだしオペラ歌手のような強い声ではありませんが、日本から連れて行くみんなとはとてもバランスよく合唱できそうでした。残念ながら、ときゆくもの役のプロ歌手とは会えませんでしたが。背が高くて実力派の歌手だそうです。

 練習後、何故僕がこんなオペラ活動をしているのか、国際交流をオペラでやることにどんな意味があるのか、日本とポルトガルの長い歴史などについて、ちょっと演説してきました。ついでながら、日本から来る人は英語が半分しか出来ないので、ゆっくりと明快な発音で話しかけて下さい、とお願いしたら、私達こそ英語が下手なのでそうお願いします、と笑いながら返されていました。これを書いている今(5月26日)にゴンサロさんからメールが入り、皆さん、私の指導を受け、話を聞いて、ますます興味を抱いてきてださっているそうです。ポルトガル巡演では3回も共演して、きっといいお友達になれると思います。皆さん、少しでも英会話を!

 そして、さっきのモスカテルをおみやげにもらった上、12時頃、ラウルさんにリスボン空港まで送ってもらい、4時のチェックインを待ちました。そのとき、空港のネットカフェ(カフェはなかった)から東京オペラ協会のホームページ掲示板に、悪戯で英語で書き込んでみたのです。チェックインまでは何とか時間を使えたのですが、チェックインした後気が抜けたのか、ソファーで一休み。が、気づいたら5時30分。あと30分寝てしまったら、帰国できなかった!ほっホッホ。帰国しない方がよかったかなあ?

 いろいろ起こりますね、海外の旅では。だから楽しい??
 今から、言っておきますが、ラテン系の国に行ったら何があっても驚かず、ゆったり対応し、迅速な行動は誰かさんに任せることです。それで今までどんな難儀も切り抜けて来ました。でも、もう仙人の魔力も落ちてきたかなあ?忘れ物ばかりするしーー、トホホ。
 しかし、無事こうして帰国し、即日東京で少年、翌日京都でフィガロ、翌々日と次の日も福岡で魔笛、またその次の日は波佐見で少年の練習。
 ああ、シアワセ!!と今、書いている僕です。

 それにしても、ポルトガル!ああ、ポルトガル、ポルトガル!何て人なつっこく、のんきで、ちょっといい加減で、優しくて、親日家で、可愛くて、美人で美男で、小さくて、中年からフトッチョデ、人種差別がなくて、日本と一番長い歴史を持つ西洋の国、です。世界に目を向ければ日本がわかります。そして自分の視野の狭さや、勝手な思いこみに気づくこともあるでしょう。

 原マルチノの故郷である波佐見町では、町をあげてこのオペラに取り組もうとし始めて下さいました。ジュリアンの故郷、西海市は、まだ燃えていません。東京では、カトリック中央協議会の理解はまだ得られず、後援は頂けませんでした。いろいろ考え方があります。しかし私達は、カトリック目黒教会で小規模でありながら公演します。お客様が感動して下さるよう全力を尽くしています。カトリック界の目が少しでも私達の活動に向いてくれることを願うのですが、仏教界や神道、そして無心論者の皆様にも関心を持っていただきたい。私達の仕事は宗教論争に火を付けることではありませんが、人間賛歌を少年達の戦いを通して描いてゆき、世界中が当たり前に元気になるお手伝いをすることでしょう。


 
2005年5月27日                     
仙人に戻れるか考えている監督、いえもう戻りつつある監督
 
石多エドワード