エドワード親書 2008年11月号
オペラ「忘れられた少年」が生まれた頃

きっかけは、もう20年前になるだろうか、当会の「魔笛」公演で長崎県の大村市を訪問した際、大村純忠顕彰400周年記念事業委員会の方々から、天正遣欧使節をオペラ化できないものかご相談があった。
僕も遣欧使節についてはあまり詳しくはなかったと思うが、話はどんどん進み、実行委員会の方々の他、当時の松本市長(収賄で牢獄生活を送られた後、今も返り咲かれている)とも何度もお会いし、数千万円という大きな予算案も申請させていただいた。
この市長さんは広告代理店の博報堂出身で、イベントをなさることが多いことでも知られた方だったが、大村純忠顕彰委員会の事業の最後の方に当会のオペラは位置づけられた。しかし、イベントが多すぎることが市議会からクレームが出て、イベントを縮小せざるを得なくなり、我々のオペラが犠牲になってしまった。 (博報堂から来た話という、天正少年使節のミュージカル「ローマを見た」の方は大村でちゃんと公演をした。もちろん数千万円の予算だったそうだ。)
当時、この事業にはキョウエイアドインターナショナルという広告代理店が入って、西日本新聞社の主催名義でこのオペラの九州巡演の事業展開を計っていたのだが、結局、大村市は無関係となり、長崎県が当時取り組んでいた「旅博覧会」から200万円程度の補助金を出す形になってしまった。大村市側にクレームを 出そうとしたが、代理店側で大村公演を買い取るから市サイドに言わないでくださいと頼まれ、泣き寝入りしたのだった。公演はしたが宣伝する時間もなく(大村市がすべてをやってくれる筈だったので)、客席がバラバラだったことを思い出す。未だに真相が分からない。その公演を大村市民会館に見に来た市長は、よかったよか ったと連発されていたが・・・・・・でも、彼も面白い人で、どこか憎めない方だった。

そんな苦難の船出だったが、台本作りは、やり甲斐があった。何しろ、帰国後の資料は乏しく、それだけに想像力を掻き立てられた。ヴァリニャーノの指示により、使節たちの言葉をサンデが編纂したと言われる「九州三侯使節」、浜田清陵先生、故松田毅一先生、結城了悟先生の全ての関係書籍、ヨーゼフピタウ大司教 から頂いたイタリア語の本、遠藤周作や松永吾一の小説、いったい何十册の本とつき合っただろう?それぞれの観点が面白かった。

さて、天正使節から私は何を現代に投影したいか?4人の誰に焦点をあてるか?タイトルは、天正の光たち、と名付けかけたが、柴田先生の意見もあってやめた。あとで「忘れられた少年」というタイトルが思い浮かんだのだ。
その大切な作曲家を誰にするか?『日本から世界に発信できる、しかも国民的なオペラを。』と思っていた私は、日本の作曲家はいったいどんな歌を作っているのだろうと、現代音楽協会や作曲家協議会に協力していただき、現代日本作曲家の夕べというタイトルの三夜連続演奏会を開いた。その中で、柴田南雄の「雨に も負けず」という宮沢賢治の詩に作曲したものが面白かった。一言でいうと、作曲する上での自由な発想が面白いと感じた。普通の歌曲のイメージを一新する曲だった。作曲の相談をしてみると、彼も天正少年使節には丁度興味を持っていらっしゃった時で、どんどん一緒にやりましょう、という空気になり、お引き受けいただいた 。

物語は何度も作り直したが、結局は主人公を置かず、ときゆく者を登場させて、4人の心の中や生き様を掘り下げてゆく今の形が出来上がった。この形で本当によかったと思う。こうしてプロットが出来上がった頃、柴田先生と誰かいい詩人に言葉を整理してもらおうか、という話も出たが、いい人が見つからず、柴田先 生の奥様にもご協力いただいて作り上げ、全音出版の楽譜にある通りの台本でいくことにした。
その後、ザビエルと忍室の論争を加えたりして、ザビエル版と呼ぶ現在の台本で公演するようになった。僕が生きている限り改訂される可能性が常につきまとい、出演関係者から笑い話によくされる。まだ僕が生きているのでゴメンナサイ、と言いながらーー。

さて、初演の頃の思い出を。
柴田先生からFAXで送られてくる1曲、1曲が楽しみでならなかった。僕の台本は、4人それぞれの心中を情感たっぷりに描いて行くが、柴田先生の音楽は情緒に流されることを拒否するようなところがあって、面白いバランスが出来上がったように思う。僕の期待を微妙に裏切りながら、かえって効果的な音楽に仕上 がっていったのではないだろうか?
知る人は知るとおり、「旅人」と最後のときゆく者が歌う「長い旅を終え」は、僕のオリジナル曲をもとに少し編曲された。オリジナルの方は、僕の他のオペラなどで生きているので御存知の方も多いだろう。2曲とも、柴田先生の音楽性と、僕のそれとが明快に区別され面白い。どちらも、とてもいい曲ではないだろう かーー。
そう言えば、初演の頃、九州では僕のを、東京では私(柴田)のを使ってはどうか、と仰っていた。心が広い、というかさっぱりして気持ちいい。
実は歌詞だけで行くと、「果てなき旅」「なぜ」「去りゆきし友へ」も私のオリジナル曲があるが、それはメロディーラインがオペラには合わないので、完全に違う曲を作られた。
それから、伊東マンショのアリアは柴田先生から追加で入れましょう、と申し出られていたのだが、そのまま他界されてしまい、僕が自分で作曲したのが今のアリアだ。

こうして、音楽会の最重鎮である柴田南雄氏と、音楽会のドン・キホーテを自称する僕との、ちょっと珍しいコンビのオペラが出来上がったわけだが、初演となる最初の九州巡演につき合った歌手たちとは、すんなりしっくりいったわけではなかった。
彼等歌手は、普通の歌手であり、これからどんなオペラが日本に必要か、などと考えているわけではなく、これに参加することでいくらギャラがもらえるか、どれだけ自分の名誉に繋がるか、などと考えて参加してきただけの人が多かった。
そういう歌手とも、初めはうまくやって行けたのだが、大村市の問題などでこちらの資金繰りが大変になってくると彼等の本音が表面に出てきてしまい、また、僕も本音と建て前を使い分けるような言い方が出来ず、気まずくなり、多くの歌手たちから四面楚歌に近い状況になった。柴田先生とは芸術的なことに関しては 考えがピッタリしていたが、音楽界に生きる柴田先生としては、歌手達の意見をもっと尊重してあげてほしいと思っていらっしゃっただろう。僕としては、こんな理解の浅い歌手達に媚びることはない、雇っているだけだ、と思ってしまったし、歌手の方は、こんなに協力しているのに配慮が足りない、待遇が悪い、と思ったのだろ う。やがてこちらに戻ってきて、仲良くやり直した歌手もいるが、一般的に音大を出て歌だけ勉強した歌手に、高邁な理想を理解させようということ自体が難しい愚かなことかも知れない。今となっては、僕も大人げなかったな、と反省している。ユニバーサルデザインの考え方を僕自身が体現できていなかった証拠でもあろう。
そして最終的に、もともとは僕の責任と言うことで、2000万円くらいの負債を伊豆の合宿所を売って、やっと歌手たちに約束通りのギャラを支払った。


涙、涙、の話はこれくらいにして、このオペラの海外公演の楽しい思い出を少し紹介しましょう。
このオペラが出来上がったことが、毎日新聞に大きく報じられると、当時ポルトガル政府が大陸発見記念委員会を作って、国興しを計っていたのだが、その関係者が記事を見て当会のオペラを招きたいと申し出られたり、カトリック中央協議会がローマ法王に会える手続きをしましょうか、と申し出て下さったりで、日本 万国博覧会記念基金などが支援をして下さり、イタリア、バチカン、ポルトガルなどで、欧州公演がスタートした。
欧州各地での公演は、初めは日本側だけでやっていたのだが、上演地の音楽家や民族舞踊団と組んで公演することが楽しくなってきた。

私が、例えばマドリッドに降りてレンタカーを借り、天正少年使節の即席を辿って2500キロ位を走り、その地の市長さんや教会の主任司祭と交渉してまわる旅――。
当然、お金はないのでパンとチーズとワインで安宿に泊まり、宿主たちと楽しい会話の旅をした。
アヴェイロという町で飲み屋に入ると、ドイツに出稼ぎに行ってたおじさんもいて、ドイツ語で話し、シューベルトを一緒に歌って騒ぎまくった。
コインブラではお金がなくてワインとチーズだけ買おうとすると、どうしてパンを買わないんだと、パンまで持たせてくれる店主もいた。
イタリアで、小高い丘の上で「オーソーレミーオ」を悪戯で歌ってみたら、見物人が集まってきたが、その中でスイスから来た客と懇意になりスイスに招かれているが、住所をどこにやってしまったかーーー、ゴメンナサイ。
地方へ行くと英語が通じなくなることが多くなるが、覚えかけのポルトガル語やスペイン語で、何とか語り合うのも楽しかった。
スペインのサン・セバスティアンの劇場監督とアポイントが取れて訪問すると、僕の来訪を忘れていてどこか遠くに出かけてしまっていたときもあった。まさか、本当に来るとは思わなかったのかも知れない。その上、確かその飛行場だったと思うが、僕は不必要になったものを早く処分するのだが、航空券をもう要らな い残券だろうとゴミ箱に棄ててしまい、翌朝、しまったと取りに行ったら、そのまま残っていてーー。冷や汗!
そういえば、ポルトガルで日本人としてもっとも高名な、柔道家の小林清さんがいらっしゃる。歴代大統領ともお友達で、40年くらいポルトガルで、警察学校などで柔道を教えてこられたため、警官で彼を知らない人はいなくて、彼が高速道路を200キロのスピードで走って、警察に捕まったとき、おつきの人が「こ の方を誰だと心得る!?小林先生だぞ!」と言うと、「失礼いたしました、お許し下さい。」と謝ったそうだ。
この小林先生がいなかったら、今までの20回以上のポルトガル公演が実現したとは思えない。彼のことを、日本政府はもっと応援して欲しい。今、体調が思わしくなく、心配だ。未だに何も、お礼らしいことができないでいるのが辛い。

でも、とにかく天正使節のことは、彼等が訪れた地の殆どの人が知らなかった。これが現実だ。

チャップリンのお嬢さん、ジェラルディン・チャップリンと「アジアの瞳」という天正使節を題材とした映画で共演できたりしたことも思い出深い。特に僕の言うべき台詞について監督のジョアン・マリオ・グリロと意見が合わなかったとき、彼女が僕の言葉に感激してくれたことは印象に残っている。何と言いたかった かというと、「人間の作る芸術は所詮不完全なもの、だからこそベストを尽くし続けるのだ」。しかし、長崎での撮影の時、僕は前日の臼杵市公演から徹夜で撮影場所に着いたこともあって、台詞が思うように言えず、「後で取り直そう」が、いつかカットされたまま映画は封切られてしまった。それにしても映画の撮影は長くてイ ヤだね、と僕がつぶやくと、ジェラルディンも「これが映画、仕方ないのよ」と話し合ったことも懐かしい。
未だに僕は映画には抵抗がある。人間が監督の駒になりきり、観客は監督の狙ったとおりに、喜怒哀楽を感じさせられて行くーー。ここに、自由な想像力が働く場が生まれるだろうか?
また前教皇ヨハネ・パオロU世、前ポルトガル大統領ソアレスご夫妻に演奏を聞いて頂いたり、現ポルトガル大統領にもお会いできたり、スペインの首相にもお会いしたり、このオペラで世界のリーダーにお会いできたことは、やはりいいことだっただろう。それがどのように僕の仕事と繋がって行くのかは分からないが 、何らかの形で僕の中に生き続けることだろう。


ところで、長崎でオペラというと未だに「蝶々夫人」―――。
長崎でオペラと言えば「忘れられた少年」、こうならないものか??
長崎の関係者に、天正少年使節をもっと大切にしては、と話してはいるがどうなってゆくのか?

さて、後になったが、先日の10月26日、大村市民会館で殉教祭があり、そのイベントで「忘れられた少年」をハイライト公演させていただいた。あの、曰く付きの大村でーー。
約700名くらいの方が観て下さった。あの感動の拍手が、みんなを勇気づけたに違いないと感じた。終演後も、浦上天主堂の平野神父様などから、「よかったですね、すごく好評でしたよ。」と感想が寄せられ、浦上天主堂での公演にも希望が生まれてきた。
やはり、この「忘れられた少年」は《気合い》、これが何より大事。初演の頃のプロだけでの演奏より、どんなにいい公演になってきたかーーー。(今度、逆にプロだけでやってみたい気もする)
演奏の最初、ときゆく者の歌の時、子どもたちのざわついた声が聞こえていたが、だんだん子供たちを含め全てのお客様が舞台に集中してこられ、聞き入って下さってる様子が、しっかり伝わってきて、あの終演後の拍手も当然のこととも思えた。出演者も、かなり満足感を持ったのではないだろうか?鹿児島の谷山教会 の公演も確かに手応えがあったが、あの時は、なにせ観客の少なさがーー。
キャストでは、石多加代子のときゆく者は、波佐見の町民音楽祭で指揮をした後飛んできた為もあり、少し浮ついていたが、だんだん本来の調子を取り戻し、最後はいい感じで語りかけていたので、お客には言葉の内容を充分感じていただけただろう。
少年4人はおおむね好調で、初挑戦の田毎志保はお母さんだが、ミゲルによく挑戦していた。廣田結希はマンショで発声にちょっと苦労していたが、今回で何か発声について掴みかけたのではないかな?今回のパンフレットは彼女が作ってくれた。梓は、のびのびと声を響かせていたと思うし、中村弥由貴も下の声が安定 してよく響いていたし、精神的にも少し成長したかな、と感じた。
ベルナルドの井元麻代は心配していた音程が、本番では何とかもってホットしたが、今後も油断しないでほしい。いつかは、そう気にしないでも狂わなくなると思います。
大人のマルチノは廣田パパ。誠実に訓練を重ね、ついにここまで成長したかと、わがことのように嬉しい。これから、深々と軽やかな声いい顔で、を標語に再精進を重ねて欲しい。
ミゲルの大石は、鹿児島より少し成長したかも知れないが、やはり声がもっと伸びるよう体を鍛え直したい。引っ張り合うようにして歌う感覚を、何としてもつかみ取れ!
おんなの坂田直子は安定してきたけど、ひたすら、体を柔軟にバネのようにして歌う、に徹して下さい。
僕のジュリアンは、鹿児島の時より危なかったので、ジュリアンになりきって会場の全ての人々に、彼の最後の思いを訴えよう、と最後の死力を尽くしました。大変な役です。
いつまで、歌えるのか?僕の代わりにジュリアンが出来るとしたら誰が?と出演者に問いかけても「エドワード先生しかいませんよ、他の人には絶対無理ですよ。」と答えがーー。
加代子のときゆく者はまだしばらくは大丈夫そうだけど、僕は内心(ここに書いてしまってるけど)恐い。お客様の期待を裏切れないという責任感と、自分の体とのバランスが限界に来てることが自分で一番感じているーー。では、誰がこの役を?
正直なところ、この役を誰かがやって不満が残らなかったことがない。この役になりきっていないのを感じてしまうからだ。しかし、僕はどこまで出来ているのか?ジュリアンが殉教に向かうときの気持ち、何度も何度も考え直すーー。自分の書いた台本なのに、再々度、ジュリアンを生き直したくなるーー。
まあ、所詮神様の前では誰もが素人、だからこそベストを尽くすだけですね。
ピアノの高月淳子さんは、僕の心配を感じてか、それこそ自分のプライドをかけて伴奏にチャレンジしました。例によって、直前の追加変更などをお願いしたけど、何とかやり抜いてくれました。有り難うね。今度はミゲル。頑張るんだぞ。



続いて、11月3日滑石教会でのハイライト公演。
何しろ、当会の事務局長として10年近くも君臨した野崎真琴の結婚式が当日の朝この教会のお御堂で。そして昼から披露宴があり、その後お御堂で2回ほど練習をして、最後に夜本番でした。
素晴らしくハードな一日でしたねーーー。
結婚式のことについてはここではあまり触れませんが、今は田中となった花嫁。当然ですが、忘れられない一日となったことでしょう。全国から集まってくれたみんなの暖かい友情を受け、これからも(は?)ステキなお母様、優しい奥様になってほしいものです。
彼女のエレクトーン伴奏も、みんなが慣れているのでやはり安心していられました。

今回の公演は200名あまりのお客様だったように思いますが、それでも終わったあとのあの拍手は、本当に感動的なものでしたね。何度も言ってしまいますが、「忘れられた少年」はいいオペラですーー。お客様のアンケートにも、私の最後の挨拶を引用され「世界平和に間違いなく役立ちます。」と書いてくださっ た方もいらっしゃいます。関係者や出演者は、どう思っているのでしょうね?
このオペラが100回公演を超えたから、といって喜んでいるのではなく、千回、一万回と世界各地で公演して行ってくれれば、もっともっと世界平和に役立っていくように思うのですが如何でしょうーー。
現代は、面白おかしいものがストレスの解消、ともてはやされがちです。しかし、本当に勇気付けられる舞台があれば、それを見る方がストレスがなくなるのではないでしょうか?そんな熱く深い舞台に接することが出来れば、人間もストレスが溜まらないでいられるようにも思います。
そんな「忘れられた少年」でありたいです。
「忘れられた少年」の公演後の拍手で、いつもこんな気持ちになり、僕を勇気付けます。
関係者の皆さん、いつかゆっくり伺いたかったのですが、「あなたはこのオペラをもっと広めるお手伝いをしたくありませんか?」

さて感想を。
練習中から、このオペラは気迫が特に大切だ、と強調してきました。どんな舞台ももちろんそうですが、大オーケストラや豪華な舞台装置や衣装よりも、このオペラは特に出演者の情熱が大切だと感じるのです。その上で、さらに分かり易い演出を目指したいと願っています。

ときゆく者の石多加代子は、最初は言葉が不安でしたが、いつもどおり心のこもった語りでお客様に感動をじっくり届けていました。特に最後の言葉はいいですね。教会で響き渡るの彼女の歌声の美しさは、まさに天下一品、と言えるでしょう。ときどき思いますが、どうして長崎の皆さんは彼女をもっと大切にしないの でしょう?彼女の謙虚過ぎる姿勢に、彼女の実力を軽んじてしまっているところはないでしょうか?
まあ、彼女の弱いところは、台詞をなかなか覚えられず、よく間違ってしまうところかな?
(それと、ご主人が頼んだことをなかなかやってくれないことーー?)

急成長してきた廣田さん。マルチノの他、大名までやってしまい、(やらされ?)頑張ってくれました。これからもその誠実さがだんだん大きな実を結び、人々を勇気付け、オペラプラザ長崎を支え続けて行ってくれることでしょう。これからの課題は、ブレスを深くすることです。あと、いい顔、です。

高月淳子のミゲル。ピアノ伴奏者から歌手に変身。大変なプレッシャーだってね。コーラスも辞退従っていましたが、最初と最後の何曲かは辞退を許しませんでした。そんなオペラなのです、忘れられた少年は。でも、高月さんは、容貌も男性に見えるし、声ももっともっと鍛えられそうで、楽しみでなりません。前回は お化けのフルマセーラで、今回は男役。いつになればーー?

助祭神父様が、マンショを。この大役、プレッシャーで大変だったでしょうね。でも、よく頑張って語りきって下さいました。神父として、あの長台詞に何か感じられていたことでしょう。これからもこのオペラへのさらに深い理解を期待しております。

僕のジュリアンは、さすがに疲れきっていましたが、神様があそこまで歌わせてくださいました。まだ、やりなさい、ということでしょう。このシリーズが終わるまでは、皆さんに大切に労わっていただいて(?)、頑張りぬきます。

少年達。
ミゲルに大抜擢した鶴留さん。中学一年生。いろいろ驚いた様子でしたが、すべてこれから。これを機会に、甘ったれることなく成長してほしいです。
ジュリアンの中村弥由貴は、何度目かだし、皆を引っ張るような気持ちでやってくれたでしょう。精神的に少し強くなった感じがします。
マンショの廣田結希は、不安定になりがちだった音程を、アドバイスどおりに引っ張ることにより、良くなっていたように思います。まだまだですが、これからの成長株、期待しています。
マルチノは久しぶりに、本多唯那。しばらく教えていなかったから少し心配でしたが、引っ張れ、の僕からの合図をうまく感じていたのか、ヴィヴラートもなくのびのびと歌えているように感じさせていました。集中力も何とか保ってるようなので、まあ、ゆっくり大きく成長してもらいましょう。

ベルナルドの井元も何度かやってきたので、良くなってきていますが、気をつければ音が下がらなくて済むのだから、それを早く自分の感覚にしてしまって、さらに上のステップに上がってきてください。

ヴァリニャーノはissy。難しい歌で、最後まで心配したけど、野崎の伴奏で少し安心して歌えていたようです。声を篭らせる癖が、歌では少し取れてきてるように思いました。さらに発声を磨いて、会場中に響き渡る発声を身につけて下さい。

坂田さんは、おんなの歌が安定して来ましたね。

岩永君は今回、ソリストらしい役はなかったけどコーラスで頑張ってくれました。忙しさに負けないでね。

中山さんは、臨時の舞台進行係、ご苦労様でした。

滑石教会主任司祭の小瀬良神父様にお礼。
カトリックの神父様もいろいろな方がいらっしゃることは当然ですが、この方は、野崎(田中)真琴を暖かいお心でずっと可愛がってくださり、真琴もとても敬愛していた素晴らしい方です。女性の信徒にも絶大な人気があり、やはりこの頃は女性で苦労されているように??
神父様でもそうですから、世俗の私は?と冗談を交わさせていただきました。イエ、私は決して苦労などしておりません!
たわむれ?はともかく、当初(10年前の平戸公演)から私たちの活動への彼のご理解は深いものがあり、素晴らしい行動力の末永幸子女史とともに、感謝の気持ちでいっぱいです。

そういえば、小村さんら江迎軍団もはるばる歌いに来て下さいましたね。
それに、平戸から山口陽子さんご夫妻、オペラプラザ福岡、オペラプラザ長崎、コール波佐見、が来てくれました。みんな、有難う!これからも、石多加代子氏を盛り上げ、乗り越え(まだまだかな?)、オペラで日本中を元気にしてゆく私たちの活動を楽しみましょう。

では、では、またーー。


   2008年11月13日

  皆様方の永遠のしもべ 石多エドワード