エドワード親書 2011年4月号

ポルトガルギタリストたちとのコンサートツアーを終え

4月23日、一行6名は成田から帰国の途に付かれました。
各地の皆さまの大変なご協力により、数々の感動的なドラマを生み出していただき、彼等全てが本当に幸せそうに離日してくれました。改めてご協力いただいた各地の皆さまに、彼等に代わり深くお礼申し上げます。
合唱で出演してくれた各地の仲間もご苦労様でした。本物の楽しい国際音楽交流が出来たようですね。

簡単に振り返っておきます。

彼等と今回最初に落ち合ったのが、13日新神戸空港のロビーでした。
エストリル音楽祭芸術監督のナジーさんと奥様の詩人ドゥルセさん、ミクロデュオのミゲルと看護士カタリーナ、同じくミクロデュオのペドロとグラフィックデザイナーで撮影班のマルタ、計6名です。長崎空港迄同行し、石多加代子に10人乗りのレンタカーで出迎えてもらいました。
9時を過ぎていたのですが、空港近くの庄屋でまずは歓迎夕食会。

11時頃波佐見町中尾の九州本部隣にある、中尾山伝習館で宿泊。エアコンが効かなかったり蜘蛛が出たりの一騒ぎもありましたが、ここで三泊楽しく?過ごしていただきました。

14日は当然ながら初練習。ギターとのアンサンブルはどうなるか?繰り返しやカットなどが煩雑なので、その点は不安がらせてしまいましたが、さすが音楽的にも見事な伴奏でビックリしました。期待と心配の両面がありましたが、無用の心配でした。後で聞くと伴奏譜へのアレンジはペドロが貢献したそうで す。

お昼には波佐見町長への表敬訪問をしました。
その後、東彼杵の竜頭泉で前回ナジーさんがお世話になったマンちゃんこと田中正秀さんのところで、蕎麦を実際に打ってもらうところから始めてもらって本格的蕎麦料理。マルタだけは苦手そうでしたが、他の全員が大喜びで食べさせてもらいました。蕎麦を揚げたものもデザート代わりに出してもらいました。

食後、マンちゃんが自作の詩吟や民謡を歌って下さり、一同言葉も出ないほどの感動。マンちゃん、見事でした。
その後は実際に竜頭泉にマンちゃんが案内してくれ、にわかピクニックを若者たちと。木々が倒れて枯れだしているのにマンちゃんも心配げでした。ドゥルセさんは81歳で健脚とはいかないのでナジーさんと途中で休憩をしていただきました。

夜は波佐見町総合文化会館ウェィブホールで、オペラプラザ長崎のメンバーに加えて、地元のコール波佐見との合同練習。自分の歌合わせが終わっても帰られず、ずっと伴奏合わせを聞かれていたコール波佐見の皆さんの姿が忘れられません。二度とない貴重な経験、と感じておられたのでしょうか?

15日朝は九州本部に隣接する四季舎の畑中さんのお世話で朝食。畑中さんは、ナジーさんが初めて石多加代子と日本でジョイントリサイタルを巡演したときの波佐見公演の立て役者で、とても懐かしがっていらっしゃいました。

昼は炎の博記念堂での石多加代子との短いリハーサルののち、近くの「牧のうどん」で今度はいろんなうどんを注文し、それぞれ分け合ってもらって挑戦してもらいました。全部大盛りにしたので、流石のポルトガル人も食べ残していました。ごめん なさい。

再び記念堂に戻って私との合わせののち、合唱のみんなが集まってきて最終リハーサル。会場はゴチック様式の格調高いところで、響きがいいのでみんな満足の様子。やはり生の音楽ですから会場の雰囲気や響きが大事ですね。

第1回の公演は、実は有田町文化協会会長であられる田中直良さんのお力で出来たのです。別の大きな行事がすぐ控えているので初めは断られたのですが、誰かさんの再度の厚かましいお願いを遂に聞き入れて下さり、出来る限りのことを手際よくさっと見事にして下さいました。田中さん、いつもながらまたまたご迷惑をかけました。でも、「本物は凄いです!」という嬉しいお言葉にホットいたしました。

ギターの素晴らしさは確かに見事でした。ポルトガルナンバーワンの実力を遺憾なく発揮して下さっていました。エドワードソングで共演したオペラプラザ長崎やコール波佐見のみんなも、素晴らしいギターと共演できて本当に嬉しそうでしたね。オペラプラザ長崎のみんなはいつも通りよく楽しんでいましたが、いつもはシャイなコール波佐見も今回はかなり弾けてくれていました。マルタが録画していたので、いつかDVDがもらえるかも知れません。そう言えば、急遽、司会をお願いしてしまった坂田直子と岩永朋子にはプレッシャーを与えてしまって申し訳なかったですね。有田ケーブルテレビの吉岡幸穂さんは体当たりで取材をして下さり、ハイライトで放映されるそうなので、これも楽しみにしています。

16日は西海市の大島農村勤労福祉センターでお昼の2時からの公演。いかにもローカルな名前の会場でしたが、ここも音響がまずまずでオペラプラザ長崎の精鋭メンバーたちとの共演でした。西海市公演はポルトガル公演に同行した中浦浮流の中尾清敏市議会議員の紹介で西海市の田中市長に面会し、そこでお会いした町づくり推進課長の森さんが取り仕切って下さり実現したのです。「無理矢理お願いして申し訳ありませんでした。」と森さんに申し上げると「ハイ、無理矢理やりました。」 と涼しいお顔で話されたのが面白く印象的でした。
ここでは司会の内丸さんたちが名コンビで楽しい進行役をしてくれました。「始めて本物を聞かせてもらいました、本物ってこんなに凄かったんですね。」と手放しで喜んで下さる姿がとても可愛かったです。

このあと、川棚の陽花亭でマンちゃんと再会。夕食に皿うどんをご馳走になりました。お世話になった中尾清敏さんや増山さんも呼んで、ポルトガルワインを頂きながらの軽い送迎会になりました。そこでみんなのお見送り。その後はまだみんな飲み続けたとかーーー?
しかし、我々は当然ながら松山へのフェリーに間に合うよう小倉まで急行。一部屋に8人が寝ましたが、若者たちは海の夜景色を満喫していたようです。

17日早朝5時について、新居浜のサロン・ド・オペラに向かい、そこで11時まで休憩。
そして別子山に直行、会場のすぐ前に展望のいいところでお弁当大会。ポルトガル側は疲れも見せず、オペラプラザ愛媛の面々が用意してくれたいろんな料理に舌鼓を。みんないろいろ工夫してくれて有り難うございました。
会場は別子山公民館。まさかこんな山の中で最高のポルトガルのギタリストたちとの共演が聞けるなんて、と皆さん驚かれていたことでしょう。しかし、会場の響きが良かったし、予め訓練しておいた愛媛のメンバーの動きも歌もよく、なかなかの出来だったように思います。ナジーさんはエストリル音楽祭の芸術監督なので、彼にも来年初演される予定の新作歌劇「天空の町」に大いに興味を持ってもらいたくて、わざわざ来ていただいたのです。新作歌劇実行委員会委員長の大橋先生もいらっしゃって、終演後、早速感動のメールを皆さんに送っていらっしゃいました。続く5月25日の環境イベントでのハイライト公演に弾みがついたように思います。オペラプラザ岡山の事務局長・広瀬千加子と次長の宇高も受付などの手伝いにわざわざ来てくれていました。有り難う!



夜は、別子山の由緒ある有名な南光院でオペラプラザの愛媛のメンバーも残って夕食会。アルゼンチンから帰国した松島家のマリアさんやテツたちも松山から来ていたので、入って感想を述べ合いました。私は通訳を拒否して、松島さんのご主人にお願いしてしまいました、さぼってゴメンナサイ。まあ、しかし愉快な感想ごっこでしたね。

さて、翌18日はやっとみんなの休日。朝から南光院の奥様、妻鳥正子さんが二週間かけて準備されていたマクロビオティック(福岡正信さんにも帰依した桜沢如一が提唱した正食)の朝食。伊庭貞剛が別子山を緑化していった様子を見事に大皿に盛りつけて下さっていました。それを説明しながら大切に朝食を頂きました。
この日から教え込んだ「頂きます!」「ごちそうさまでした!」を徹底的に励行しました。私が忘れかけても、何か忘れてないか、と彼等が私を注意したほどです。

雨でしたので、別子山のダイヤモンド水まで登るのも諦め、マイントピア別子に寄ってビデオなどを見た後、彼等待望のショッピングをしてもらうため新居浜市内に降りて行きました。敬意を表して佐々木新居浜市長に面会を社会教育課長の関さんに仲介していただき申し込みましたら、すぐに了承の知らせが来たのですが、その前に両替を頼まれていたのがズットできなかったので新居浜市の伊予銀行に。対応がうまく行かず手間取り、市長さんを15分ほどお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
市長さんは、それにも拘わらず、ご丁寧に新居浜市の航空地図がある部屋にお連れ下さり、彼等にじっくりと自らいろいろ説明して下さいました。ないと思われた英文のパンフレットも探し出して下さいました。その後、まだ昼食を取っていないのでお好み焼きでも食べさせたいのだけれど、と市長さんに相談すると、ある個性的なお店に係の方がご案内いただき、いろいろな種類のお好み焼きや焼きそばに、たっぷり挑戦していただきました。

そのあと、やっとショッピング。私はちょっとサロンで一休みの間、みんな大いにショッピングを楽しんでいたようです。
そして、再び別子山の南光院さんに戻り、いよいよマクロビオティックの粋を極めた最高の夕食に。詳細は内緒です。これは、いつの日か皆さまにも写真でご覧頂けるかと思います。

さて19日は少し雨も収まったので、東平の東洋のマチュピチュと呼んでいる鉱山遺跡に案内。係の方々が何人も待っておられ、ご丁寧に説明していただきました。ポルトガルの最高のギタリストたちが来ていたことは知らなかったようで、聞けなかったことを大変残念がっていらっしゃいました。
それからお昼に回転寿司に案内して、ワイワイガヤガヤといろんなお寿司を楽しんでもらった後、いざ岡山へ。瀬戸大橋の景色をたっぷりと楽しんでもらって、まず、ホテルに到着。彼等に休んでおいてもらって、会場のシンフォニーイベントホールに。5時前にホテルに再度迎えに行き、オペラプラザ岡山の仲間といざご対面。今や親友となった、盲導犬のアテネやリーアムも紹介し、ギターと合わせた後もさらに練習、練習。ここは響きが心配だったのですが、それも乗り越えてポルトガル側も素晴らしい演奏を、みんなも急だったにも拘わらず頑張って歌いました。アテネやリーアムはおそらく初めての本格的ギターの音色をどのように受け止めていたのでしょう?

終演後は、積極的にポルトガルの彼等と話すよう、みんなを嗾けました。国際交流は、まず、その気になることが一番ですね。そのうちに何とか話せるようになるものです。カラッポの僕が言うのですから間違いありません。話せた人は楽しかったかな?ポルトガルワインはいかがでしたか?車で飲めなかった人は残念至極だったでしょう。

閉館が近づき、遅い夕食のため、ポルトガル側はホテルで残りのお弁当を頂きに戻りました。演奏前には彼等は殆ど食べません。みんなは、あの後何か?

20日は、長野に長距離ドライブ。誰が運転したかって?勿論私ですが、彼等がエドワードソングをすっかり覚えてしまって次から次への歌い出すものですから、眠くなりようがありませんでした。

途中、私の母に会わせるため大阪の実家に寄ってご対面。ナジーさんたちと母は15年ぶりくらいになるでしょうか?母はナジーやドゥルセのことを、本当に暖かい人だと思ったようでした。半身不随になった母の、貼り絵のプレゼントもありました。

長野は鹿教湯温泉って御存知ですか?松本と上田の中間にある鹿が武士に教えたとの言い伝えによりできた地名だそうですが、旧知の羽田義久さんが最高級の齋藤ホテルと食事を用意して待って下さっていました。彼は元総理の羽田孜さんのいとこで、お父さんの羽田和樹さんは徐福の研究家でもあり親しくさせていただいていましたが、日中合作歌劇「蓬莱の国―徐福伝説」の上田公演を実現していただいた方です。
考えたら、本当に沢山の方々のご協力で支えられてきたのですね。感謝――――!

それにしても、この義久さん。B型典型と自認していらっしゃるので申し上げますが、本当にアイデアマンでお父さんの和樹さんが始められた胡桃産業を引き継ぎ、様々なアプローチで発展させていらっしゃっています。まだ公表できませんが、私も胡桃に少しでも貢献できるかも知れません。クルミって語調もいいですね。そのヨシちゃん。ポルトガル人たちと本当に自由にしゃべりまくられていました。あの様子は、私の別のB型関係者が、以前ポルトガルでいい加減な英語でもまくし立てていた光景を彷彿させていました。ナジーさんたちも、それに見事に応じていらっしゃって、私の出る幕はないほどでした。国際交流の原点ですね。

21日は、朝からまず篠ノ井にある円福寺幼稚園を訪問。円福寺の現住職、藤本光正さんが主催してくださいました。此処は私にとって非常に意味深いお寺なのです。
ちょっと説明させて下さい。
私の母はフィリピン人ですが、ジャパユキさんが問題になった頃には駆け込み寺のように彼女たちをかくまったり、敬虔なカトリック信者として命の電話にかかわったり、また日本とフィリピンの友好のための福祉活動を続けてきました。戦時中は日本軍の報道部に勤めていた母でしたが、その上司に当たる人見潤介大尉さんが、一福一円運動をなさっておられる篠ノ井円福寺のご住職だった藤本幸邦さんを紹介され、彼が貧しいフィリピンの方の為に福祉活動されようとしたとき、母が通訳や案内役をしたことがありました。
そうとは知らず私は東京のあるところで、藤本幸邦さんと一緒に講演したことがあるのですが、その時はまさか母と知り合いとは思いも寄りませんでした。不思議な縁としか言いようがありません。人見潤介さんの部下だった望月中尉は、フィリピンの人々からもとても尊敬されていた方なのですが、ゲリラに命を奪われてしまいました。望月中尉は光世さんのおじさんに当たるそうです。

何だかややこしい話をしてしまいましたが、とにかく、光世さんは1月31日の「忘れられた少年」東京公演にも来ていただきました。そして、今回のコンサートを突然の申し出にもかかわらず引き受けて下さったのです。
戻って整理しますが、円福幼稚園の理事長が光世さんで、悠紀子さんが園長、と言うわけです。
その幼稚園児の何と輝いていたことか!歓迎してくれる元気な歌声はビックリするほどでした。私たちも少し応えて演奏したのですが、ポルトガルのギタリストは蝶々やキラキラ星を、私はワンガラナイを歌って遊びました。アンコールには、「こんなに空が青い」を歌唱指導して合唱しました。先生方も乗っていましたね。

昼食には、篠ノ井で有名な蕎麦屋「一松亭」に。蕎麦が苦手なマルタにはゴメン。日本人になり切れ!と私が言うと、お茶目なカタリーナはそうだそうだとペドロとともに相づちを嬉しそうに打っていました。ミゲルは一番ナイーブでシャイで繊細な感じでしたが、一番話しかけてきたのもミゲルです。それはともかく、もう一つの天ぷら料理は流石に全員が美味しそうに食べていました。また、彼等はお箸の使い方がとても上手なのには驚きました。ポルトガルで練習してきたのでしょうか?



もうひとつ、面白いものがありました。そこの池を眺めると、ビックリするほどの大きな鯉に混じって茶褐色の鮫のような大きな魚?が。店員に聞くと何とチョウザメでした。淡水でも大丈夫だそうで驚きました。

このあとは、善光寺参りに。同行しないはずだった悠紀子さんも急遽予定をキャンセルしてご一緒。アメリカに10年居たお坊さんが英語で話してくれたのですが、自分でアメリカ訛で申し訳ないと言っていたのが面白かったです。それより、本堂の下の方に真っ暗な通路があり、「極楽への鍵」にさわれるそうなのですが、幸運にもさわれると極楽に行けるとか。また、愚かな観光客目当てに!と叱りつけたくなるところですが、まあ、この日は大目に見て上げました。全員、阿弥陀像にさわれたようで、オメデトウ!私?私は勿論―――。つい、さわってしまいました。(笑い)

さて、続いて篠ノ井高校のギターマンドリン部を訪問。なかなかの演奏でこれまた驚きましたが、我々のお返しの演奏には本当にビックリしたらしく、ここでも「本物のすごさ!」を初めて味わったような様子でした。それにしても、のびのびと音楽する高校生たちの様子は誠に好感が持て、東京では?と考えてしまいます。東京でもそう出来るはずなのですが、何か卑近な誘惑が多く、ゆっくり芸術と向かい合いづらいところもあるのでしょう。

そして、本番前。お腹一杯の彼等に、今度はおうどん!追撃です。彼等はもう半分うんざり、だったかも知れませんが、ナジーさんやペドロはどんどん食べていました。

そして、いよいよ演奏会場の愛育園体育館に。愛育園は、同じく藤本さんたちが経営されている保護施設のような所です。しかし、響きも良く。ギタリストたちも私たちも思いきり気持ちよく演奏させていただきました。

しかし全ツアーを通して、今回ほどエドワードソングが喜ばれている、と実感できたことはありません。合唱のみんなが各地で頑張っていたときはそれなりに盛り上がって楽しくなっているのは分かっていたのですが、二人だけの長野でも、とは何故でしょうね?私の調子は相変わらずひどいものでしたが、石多加代子のソプラノが絶好調で、良かったからでしょうか?彼女の声はリリコレジェロで、今回も確認しましたが、日本語のデリケートなニュアンスを表現するには太すぎず重すぎず、ちょうどいいようです。ヨシちゃんも予定を変えてわざわざ聞きに来てくれて大感激のご様子―――。もう、自画自賛はこれくらいにしておきましょう。

とにかく、藤本ご夫妻、本当に感謝申し上げます。悠紀子さんは「忘れられた少年」のドイツ公演にも参加なさりたいとご主人に訴えていらっしゃいましたが、どうなりますか?光世さんは、朝、昼、夜と三回とも演奏に立ち会えたことを感謝して下さっていました。こちらこそ、です。

演奏後、別れを惜しみながら再び豪華な齋藤ホテルに。途中、レストランでやっと食事を。演奏のあとは本当に解放されるらしく、彼等の顔の表情の変化が手に取るように分かります。可愛いです。齋藤ホテルでは、露天風呂の他、マッサージ器に身を任せたり、最高の景色を楽しんだり、大満足だったようです。

カタリーナとマルタが、日本のお父さんになってくれと、私に頼んできました。日本がよほど気に入ったようです。カタリーナはリスボンの両親の家に泊まりに来て欲しいとも言っていましたが、ポルトガルにはいつ行けるのか?10月にはドイツ公演があるしーーー。
そう言えば、ポルトガルは今や小さな国になってしまい、EUが大変な資金援助をして立て直すことになるようです。実は、ミゲルのお父さんは財務大臣なのです。お父さん、今、大変でしょうね。

22日は朝からヨシちゃんがお見送りに来て下さって、リハビリにいいクルミが2個入ったものをプレゼント。2000円するものなのですが、私も母のためにもらいました。コロコロ、ゴリゴリ、ゴラゴラ、手の中で擦り合わせる音もいいものです。
ヨシちゃんに別れを告げ、いざ、東京へ。行きつけのホテルリステルに着くと、タイミング良くバイキングの日で、何でもござれの豪華ランチ。
4時頃までホテルで休んでもらって、私は東京メンバーの特訓に事務所へ。みんなの出来が心配したより良くて安心して彼等を迎えて再度練習し、いよいよ本番の会場、ムーブ町屋へ。

会場では申込書を持参しなかったので、ちょっと待たされたようですが、何とか時間通りに入館させてもらい、エドワードソングなど、すぐに最後の合わせを。東京が実は一番手薄になっているような気がしていたのですが、案の定でお客様が一番少なくなってしまい、彼等をガッカリさせたのではと申し訳ない思いでした。
また会場は音響が余り良くないので、少し大変でしたが、何と東京のお客様とは思えない乗りようで、ヤッコラサエンコラサを殆どのお客様が歌ってくれていました。あの柔道の小林先生も来て下さっていて、嬉しそうなお顔は、何とも言えないものを感じました。

ポルトガル大使館から領事や旧知の文化参事官サントスさんも来ていて、何も応援できなかったことをとても詫びていらっしゃいましたが、会場隣での打ち上げは楽しく、英語、ポルトガル語、日本語が入り交じって面白いムード一杯でしたね。ワインを協賛して下さったスマイルの方々も満足して下さっていたようで良かったです。

そして、新宿事務所へ最後のお別れパーティーに。ドンナ様子だったかはもう、ご想像下さい。深い国際交流とはどういうものか、出来るだけ多くの方々に伝えたいと願います。

彼等は、明朝までもう寝ない、と宣言していましたが、深夜ホテルの側迄送ってからはどうなったか?

翌朝は6時近くにホテルに迎えに行き、成田空港に直行。予定の7時に何とか到着し、お別れの抱擁―――。

私は、東京駅に石多加代子を送って、再びそのレンタカーで長崎への旅に。無事着いたのは確かです、こうして報告が書けているのですから。良かったですね??

さて、私は次の仕事に向かいますーーーー。
皆さんと今度会えるのはいつでしょうね?

2011年4月28日 

  石多エドワード 

 

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