エドワード親書 2020年4月号

いま出来ること

まずは掲示板から転載します。

皆さん、大変ですね。
でも周りの皆さんと一緒に頑張っていますか?
今は出来るだけ動き回らず、世の中を見つめ、人類の歴史を思い出し、宇宙のことを想像したり、大切な人たちを思いやったり―――。
こうして今は、自分自身が生きる使命をもう一度見つけるチャンスにしましょう。

僕は、カミュのペストや手帖、フランク パブロフの「茶色の朝」、加賀乙彦、福岡正信さんらの本を読んだり、秘かに台本を書いたり作曲したり、ゆったり過ごしています。
実はそれだけではなく、九州本部の山中を毎日2時間くらい歩き回りながら過ごしているのです。
山の空気の瑞々しさ、空のどこまでも広がる青さ、桜からつつじにそして新緑に見事に代わってゆく木々も美しい、ミツバチや蝶も自由に飛び回ってるし、ホケキョケキョと泣きまくる鶯や、ピーット叫ぶヒヨドリの声―――。僕も思い切り歌いながら歩いています。
歩こう、歩こう、私は元気!とか、天空の町の名曲を!
それにたまには、突然現れるタヌキ、アライグマ、そして野ウサギ、彼らとと顔を合わせ、御挨拶することもあるのですよ。

都会にいらっしゃる皆さんには申し訳ないほどですが、皆さんもせめてお家の中には風を入れたり、公園などで人との距離を適度に取りながらささやかでも自然の恵みを思い出してゆったり味わってお過ごしください。

東京オペラ協会は皆さんのためにあります。
今の状況を乗り越え、ご一緒に頑張りましょう!

以下は、最近フェイスブックに投稿した独り言ですが、書いた順に並べててみました。オペラには直接関係ないことも、重複するところも多いのでご容赦を。

今回のコロナウィルスについて、みんなはどう思っているんだろ?
早く終息することを願うのみ、かな?
しかし人間にはこれからも似たようなことが起こるだろうね。何かの警告だとしたら人間は何に気をつければいいんだろ?
人と人とが助け合うことの素敵さに気づけばいいな―――。国と国との間もね。
それを夢物語にならないようにするのは、今生きている僕たちだけど。
3月9日

この新型コロナウィルスを人類の危機と恐れるだけではなく、世界が仲良くなれるための大きな試練と捉えたい。そのためには、私たちの揺るぎない勇気と粘り強い努力が必要だろう。
各地の友人たちと手を取り合いながら、私に出来ることをしてゆきたい。私たちの心からの歌は力になると信じて。
3月30日

世界が仲良くなれる絶好の機会を与えられた。
コロナという大きな試練。今あなたと乗り越えよう!
青空が広がり、桜が一面に咲き乱れ、緑がこんなに息づいている。そしてあなたがいて素敵な仲間たちがいる。これ以上何がいるというのだ!
やはり僕は人間が好きだ。
僕は作り続けよう、歌い続けよう、みんなの願いを抱き留めながら。
4月4日

「世界が仲良くなれる絶好の機会を与えられた。」
と思いたかったのに、いま世界の指導者たちは―――、彼らを選んでいる国民は――。
すべての国は団結してコロナと戦おう、と国連の事務総長が声高に呼びかけてるのに、世界の大国が自国の利害第一の国家主義的になってきているように見える。
今の身近な世の中を見ても、自分の利害、つまり損得勘定がどうしても第一になってしまって、人は広い視野に立って考えられなくなってしまいがちだが、国家もその延長戦に。国家の指導者が自国民の利益を第一に考えるのは当たり前のようだが、現代はそれでいい筈がない。自国民に世界各国と助け合わなくては地球が滅ぶのだ、ということを説得できる指導力が必要だ。
ひと昔前なら立憲君主国がいい、というところだろうが、民主主義が表面的には定着してきている現在、問題は反って根深くなっている。つまり、民主主義は形だけになって来ていて、民意そのものが実はお金で動くマスコミに操られてきているなら、これは大問題だ。違うと言えるか?
民主主義が美しいのは、一人一人が孤独である場合だけではないか?いつの間にか皆が右に倣えとなってしまえば、もう手が付けられない愚集になってしまう。孤独な存在でありながら、出来るだけ多くの人々の気持ちを思いやれることが大切だ。つまり心に余裕を持つこと。私たちは心に余裕を持てているだろうか?卑近な利害に振り回されてはいないだろうか?
ところで、アメリカや中国の指導者は世界が手を結ぶチャンスにする気はあるのだろうか?とてもそう思えない。さて日本は?
私に何が出来るか?あなたに何が出来るか?私たちに何が出来るか?問い続ける気持ち、その情熱と覚悟を失うまい。

皆さんは、茶色の朝、という20年前に発表されたフランスの寓話を覚えておいでだろうか?「現状もそう悪くないのだから、そのうち何とかましになるだろう―――。」と思っていた社会が、どんどんと、ひどい状況に引きずり込まれていってしまう様子が短く明快に描かれています。
ご存じない方は、読んでごらんになりませんか?
カミュの「ペスト」や「反抗的人間」もいいですね。
4月17日

アイヌ民族は共生の精神に基づき、コロナウィルスに『何とか鎮まりください。お互いに生きていきましょう。』と祈るそうですね。
民族間、国家間の共生はある程度理解できても、地球上のあらゆる命と共生することは、人間が大自然に生かされていることを深く理解しない限り無理かな。
やはり、コロナウィルスは神が人類に与えた究極の試練でしょうか?
わたしはでも、人間がやはり好きです。みんなとともに仲良くいたい。皆さん、私たちも卑近な我欲にとらわれず、周りの人々、そして世界の人々と手を取り合い、楽しく歌いましょう!
4月18日

もしかして、コロナウィルスは自然に弱いのではないか、と直観して何週間か前にどこかに書いたような気がする。
医者の息子はじめ、おおかたからは黙殺されてしまったが、以下の記事を今日ネットで見た。

[ワシントン 23日 ロイター] - 米国土安全保障省の高官は23日、新型コロナウイルスに関する政府の研究で、日光が当たる場所や高温・高湿度の環境下では、より短い時間で威力が弱まる傾向が示されたと明らかにした。
同省科学技術局のウィリアム・ブライアン局長代行によると、政府の研究者らは、新型コロナが最も生存しやすいのは屋内の空気が乾燥した環境で、気温と湿度が上がれば威力を失い、特に日光に弱いとの研究結果を報告した。

ADVERTISEMENT
同氏はホワイトハウスのブリーフィングで「直射日光に当たれば、最も早く死滅する」と述べた。

どうだろうか?
3月末から長崎の山奥で過ごし、毎日2~3時間の山歩きで陽光をたっぷり浴びながら森林浴しているせいもあるだろうが、私の直観をみんなが試みてほしい。これは私が現代医学の素人だから言える特権か。
4月24日

最後にコロナウィルスさんにお聞きします:
貴方は人間界でどんなお仕事をなさっているのですか?
貴方は自然の中に入っても元気でいられますか?
今までもこれからも、大自然とともに生きていらっしゃいますか?
4月24日


いま出来ること―ひとりごと風に

ココから思いつくまま独り言の文章を並べ立てますから、そのおつもりでお読みください。

人類史上初めの状況が生まれている。今できることは、まず身近な人を思いやることかな。そして余裕が出来れば海外の人々の様子も思い描いて、コロナウィルスに何とか打ち勝つ道を考えられるともっといいな。
既にいろいろな方が表明されているだろうけど、この危機を与えられた試練と受け止め、それを世界中で手を取り合い仲良くなって乗り越える絶好の機会にしたい。

しかし僕は、その前にこの頃気になることがある。
僕はいつの間にか奢っていたのではないだろうか?
両親からいろんなものを頂いて生まれたからには、それを育て上げて指導者として人を幸せに導く使命がある、と思い込んでいたがホントはどうだろう?

賢者は経験からより歴史から学ぶ、という言葉通りに若い頃から人類の歴史を学び直し、その素晴らしい文化遺産(美術、文学、音楽など)を可能な限り精いっぱい吸収して、あるべき指導者たらんと願って来たわけだが、その実、弱い立場に追い込まれた人とはどこまで深く向かい合えていたんだろう?

浮浪者と寝食を共にし、死刑囚のことで思い悩み、癌で苦しみながら死んでいく友をずっと一晩抱きしめ、死刑に反対しながら死刑を止めることが出来なかった自分を責め、友人や時には自分が死刑になって死んでゆく夢で悶え、ぎりぎりの立場に置かれた人のことが気になって仕方ない自分ではあった。オペラで各地での戦争を止める道を求め続けた人生ではあったが、それでもどこか上辺だけだったように感じる。

例えば、ここに普通の傷つきやすく体も弱い子供がいる。この子は、とても怖がりだし、気が短くてすぐ暴れ出したり、暴言も飛び出して周りを傷つけることも多い、そんな子供だ。
この子は何故存在しているんだろう?生まれる意味はどこにあったんだろうか?この子の心の中ではいま何が渦巻いてるんだろう?この子が私たちと楽に生きてもらうにはどうしたらいい?

また、生まれつきはっきりした障害を持って生れ出てきた子もいる。奇形児もいる。ダウン症の子も。彼らは、他の子と違うことを何か思っているのか?
この子の両親はどんな気持ちで生んだのか?生まないといけなくなったのか?生みたかったのか?
いや、もしかしてこの子は健常な子供より幸せなのかもしれない。でも幸せって何?

また、精悍な若者が突然の事故で両手両足を失ってしまった。頭もいい。この若者とはこれからどう付き合えばいいか?生活の世話をすることは何とか可能だし、もしかしてこの若者にも新たな楽しみが生まれてるかも知れない。
しかし、この若者の深い悲しみの気持ちを私は共感できるのか?共感したうえで、それを他者と分かち合うため芸術として表現できるのか?

私は今、試されているのだろうか?思い上がったこの芸術家気取りに、弱い立場に追い込まれた人は心の奥底で私をどう思っているのか?彼らとまっすぐ向かい合って生きていけるのか?これからの私は何を目指せばいい?

そんなことに思い悩みながらも、一方で宇宙のことをよく考える。
宇宙を想像すればするほど、いろいろ悩んだり考えている自分が愚かしくなる。この宇宙が出来て200億年経ったとすると、広がる宇宙の中に、銀河が生まれ、私たちの太陽が生まれ、この地球が生まれ、命と名付けられたものが生まれ、人類が生まれて、今がある。(時間ってあるのか?本当に流れてるのかさえわからないけど)宇宙や地球そのものが命なのだと考えると、僕らが普段考えている一人の個の命などありえないのではと思う。
特にこの頃思うのが、命。30代の頃に書いた自筆詩集に、「命なんて勝手に名前を付けてるけど、命って何?素粒子の中を飛び回っている陽子たちは命では?宇宙そのものも命では?」と考えて書いていたし、人間が認識出来ている「ある現象」に命って名付けてるだけなんだなと思った。
それに、ビッグバンから始まったこの宇宙というが、この宇宙ではない他の宇宙もありうる。
こうして分かろうとすればするだけ、わからないことが増えてくるだけ。

私というこの生命現象、自由にできるならどうしよう?どう使おう?あるべき使い方は?
好き嫌いで決めるなら、好きなことを好きな人々と愉快に過ごしたい。愉快?好き嫌い?こんな感情も生命現象のひとつだから、どうでも操作できる方法もあるだろう。今なら人間の神経を好き勝手に操作できるだろう。好き、とか愉快だ、と思わされたりされているだけか。
個別の存在などありえないのに、全てのつながった生命から私が、私は、私を、と個別に自己を分別してしまって当たり前のつもりでいる。全生命といっても先ほど書いたように、何を生命と呼んでしまっているのか?生命って何?
宇宙のことを想像すればするだけ、個を考えることの難しさが深まるばかり―――。

福岡正信さんは、一切無、と仰ったけど、無とは分かりづらいので私は空と感じている。
空も分かりづらければ、完全なる自由、と呼ぼうか?何ものにもとらわれないでいい、という感覚か。
こんな感覚は老荘思想に近いかと思うが、世間の良識ある方々とは理解し合えないかな?
それでもいい。宇宙も、生命も、何が何だかわからなくていい。ワンガラナイでいい。
ただ僕は人を好きでいたい。人間賛歌を歌い続けたい。
こんな気持ちを僕と一緒に歌ってくれる人がいたらいいな―――。

以上、思いつくことをただ書いてみただけですが、お読みくださり有難うございました。


   2020年4月24日

 石多エドワード