エドワード親書 2020年8月号


≪初めての日々≫
〜長崎での安らぎの時へ〜 石多エドワード

フェイスブック(FB)に書いたひとり言から抜粋(2020年5月から)

 



この長崎医療センターから退院できる日がやっと見えて来たので、そろそろ親書に載せてもらおうかと思います。
それより何より、いろいろ心配させてしまい、私からのきちんとした報告をしなかったこと、お詫びします。ごめんなさい。
今回載せるのは、FBに書いた独り言を補足し、また余禄には、載せなかったことを書き加えておきます。
今のオペラ活動に直接関係することもありますが、私の中にあったもう一つのつぶやきぐらいに思って読んでください。

 今日から五月にーー。

普段ここには東京オペラ協会のみんなにはあまり話さないことを書いているが、この世界的なコロナ騒動の時代に、東京オペラ協会の活動は次の新しい時代に愉快なメッセージを届けられるか?
しかし今だからこそ、東京オペラ協会の目指してきた「ユニバーサルデザインによるオペラ」「オペラを使っての国際交流」という二つのメッセージが、より理解され共感していただけるのではないか?
この大変な人類の危機の後、元に戻れるかを考えるのではなく、世界各国、そして各民族が繋がり合える機会を頂けた、これからもっといい世界にしよう!と皆で思えるようになりたい。幻想ではなく、今の東京オペラ協会は何か出来るか?
5月1日

 長崎の自然の中に入って一ヶ月余り。

山の中を歩き回って、思い切り歌える贅沢?を楽しませてもらっている。
歌いながら楽しんでるのは自分だけど、周りの小鳥たちや花や木々は僕の歌をどう聞いているんだろう?迷惑かも知れない?でもマイクを使ってガンガンやるわけじゃないし、案外面白がってるかな?
そんな中、思うことが。
素晴らしい作曲家がたくさん生まれたクラシック時代だが、それより以前も音楽はいろいろ活躍していただろうなーー。
何千年も前の人間は、どんな音楽をどう楽しいんでいたのか?
バッハやベートーベンはあの時代の要求もあって、必要から生まれた作曲家かな?
そして、いろんな考え方生き方が混在し混迷を深める現在は、クラシック音楽の復活が必要になった時代か?
音楽だけではない。
人間の歴史の中で芸術と呼ばれるものが出来て、いろいろ発展?してきたようだが、さて今の芸術は人類にどう貢献できているのだろう?
この時期に、どんな芸術があれば人々に貢献できるかな?どんな芸術を作ればいいのか?
しかしその前に、僕はどんな人たちに貢献したいのだろう?
病める人、孤立する人、絶望から希望を求める人、弱いけど頑張りたい子供たち―――?
少なくとも自信を持って奢ってる人にではないな。
僕の歌やオペラ作品が、大切にしたい人たちの役に立てたらいいな。
このコロナ狂騒曲の中、どんな芸術が本当に必要か、みんなも考え直してくれると嬉しい。
そこで中国の有名な話を思い出した。
歩いていると突然虎が現れて皆は慌てて逃げ惑った。しかし賢人は慌てることなく冷静な判断で逃げた。なんだ、賢人もやっぱり逃げたんじゃないか、と思えるがどこか違う。
こんな時こそ冷静でありたいものだ。
熱い想いは芸術で表現したい。
毎日の二時間前後の山歩きで、自然に抱かれながらこんなことを考えてる。
5月2日

 こうして元気でいられることに感謝しながら思う。

元気が一番!
それも、一時的にじゃなく、ずっと長続きする元気がいいな。
自分だけじゃなく、周りのみんなも元気がいい。
勿論、日本中が世界中の人が元気でいるのが最高だけど、それはそれぞれの出来る範囲でやるしかない。
それでいい。
忘れたくないのは、あらゆる人すべてが元気でいたいと願っていることだ。
絶望に立ちすくんでいる人にそっと近づき、手を差し伸べるのはそう難しいことではない。ただ手を差し伸べればいいんだ。
そう、それに僕は歌える。
深い悲しみに打ちひしがれている人に、優しく包み込むような歌を歌ってあげられたらどんなにいいだろうーーー。
5月15日

 みんな、ムズムズしだしてる。微笑ましい、

と言ったら怒られるかな?
でも誰かが元気に振舞いだすと、それにつられてみんなが元気になってしまうから面白い。
落ちるところまで落ちたら、必ずまた浮かびだすのが自然の法則。まだそこまでは落ち込んでいない人もいるだろうけど、とにかく誰もが少しリラックスしてほしいな。余裕を持って周りも自分も見直せるようにーーー。
青い鳥の原作を読み直して新作ミュージカルの構想を練り直してるが、その傍ら、城山三郎の「指揮官たちの特攻」と「落日燃ゆ」を読んでみてる。
余裕を持ちながら、絶望の底まで落ち切った彼らのことも忘れたくない。
自然の中に入ってもう50日くらいになるだろうか。見事に移りゆく自然を改めて堪能しながら、みんなの笑顔をそっと抱き留めたい。
5月19日

 ホタルが!

東京オペラ協会九州本部の周りで、今日初めて光り出した。
ビデオに撮って皆に見せてあげたいけど、やはりホンモノを見てほしい。皆は今、ホタルを見たら何を思うかな?
明るい希望の光となるか?
皆が思わず微笑んでしまうといいなーーー。
5月25日

 ウルグアイの元大統領ムヒカさん

のことを、みんな覚えてるだろうか?
福岡正信さんのことは僕が歌劇「天空の町」の中にも取り入れてよく話すので、オペラ関係者は何となくは覚えてるだろうけど、無、ってわからない人がほとんどだった。
でも、このムヒカさんの「人間の幸せ」についての言葉は分かりやすい。実はさっき彼の関係書籍を5冊も購入してしまった。
彼が数年前に日本にいらっしゃった時、ホタルをゆっくり見たのかな?見たらどう思っただろう?
5月26日

 セネカの格言

人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ。
どの港へ向かうのかを知らぬ者にとっては、いかなる風も順風たり得ない。
難しいからやろうとしないのではない。やろうとしないから、難しくなるのだ。
中傷を受けない賢人よりも、中傷を受けても動じない賢人のほうが格が上だ。
言論が堕落したところでは精神も堕落している。
大切なことは、何に耐えたかということではなく、いかに耐えたかということである。
君が長生きするかどうかは、運命にかかっている。だが、充実して生きるかどうかは、君の魂にかかっている。
貧しい者とは、ほとんど何も持っていない人間のことではなく、もっと多くを渇望する人間のことを言う。
以上は、ムヒカ元大統領が引用した古代ローマの哲学者セネカの言葉。2000年前だけど今なお新鮮。いつも思うけど、現代人はもっと古典から学んでほしいな。
さあ、5月が終わる。いよいよ山から出かけるか!
5月30日

 再びちょっと山籠もり。

梅雨だから、野山を歩き回るのも控えめにするが深い緑に囲まれているのはいいものだ。
世の中のコロナがこのまま段々収まってゆきますようにーーー。
人間にとって一番大切なことは何だろ?
何より、元気でいられることなんだ、と改めて思う。
お金や財産、名誉や学歴や権力、多くの人が今求めているものは一生のお荷物になるだけ。いろんなものを持てば持つほどそれらの保持に腐心し疲れてゆき、結果的に元気でいられること、から遠ざかっていく。
でも、人は気付いているだろうか?
歌はお荷物にならない。一生最後まで身近で寄り添ってくれる。
まあ、歌だけというと怒られるかも知れないけど、歌ほどいいものはないと思う。
梅雨の合間を縫って、また山で歌いまくるか!
6月13日

 ウルグアイの元大統領のセネカさんの言葉。

「私は情熱家ではあったが、熱狂家ではなかった。」
コンサートやスポーツ観戦でみんなが熱狂する姿は私たちも見かけるが、さて「情熱家」とは?
あの人は情熱を持っているなーー、と感じる人は確かにいる。概ね表面的には謙虚で、大きな精神的支柱を持って何かを成し遂げようとしている。
でも、たまには熱狂的になってもいいし、それを人間らしくて愛おしいとさえ思う。人は皆バカなところがあって、それで世の中が成り立っているから。
ただ、ムヒカさんのこの言葉は忘れたくない。
6月18日

 長崎の医療センターにいるけど、

みんなと早く会いたいな。
つくづく今までのことを感謝しながら、慕ってくれたみんなの顔を思い出す。
みんな、いい顔だったなーーー。
7月2日

 誤解や憶測が勝手に広がるのは迷惑になりそうなので、一言。

6月末から大村市にある長崎医療センターに転院して、複数の多方面の医師たちの連係プレーにより、膠原病の一つで国の難病に指定されている、結節性多発動脈炎という病名が確定。完治は未定。
詳細は東京オペラ協会の会員掲示板にも報告されていますが、ココは話し合う場にはしたくないので、私の個人メールに聞いてくだされば出来るだけ、ご返事したいと思います。
7月5日

 コロナから大水害。

日本の美しい自然に囲まれている我々だが、自然の厳しさも思い出させる。
それでいいんだよね。
自然と向き合って謙虚に生きてゆこう。
体調も上向いてくると、みんなの顔がますます見たくなるなあーーー。
7月7日

 思い返せば

人を好きになりたくてやってきたんだなあ、と改めて思う。
人が群れて楽しく過ごしているのを見てもいいなと思って来たけど、ただ群衆の熱狂となるとどうも苦手だった。
その一方、一人一人と向かい合うと、いろんな可能性を抱きかかえてみんな頑張ってて生きてるのをつぶさに感じる。
そんな一人一人の力になりたい。修行不足で純粋な博愛には届かないかも知れないけど何か力になりたい。そんな活動、そんな作品を作れないかと願い続けた。
そしてそんな一人一人が参加して楽しめる舞台を作れたらいいな、と願って来たのかも知れない。それがユニバーサルデザインオペラとなり、更に国際交流オペラと願いは広がってきたのか。
やがてそんな活動の中で気づいたことが、みんなそんなに世俗のいろんなものに捕らわれず、いわば空っぽになって楽になり、大自然とともにゆったり生きていったら、みんなもっと楽しくなるのにな。ということかな。
日本の各地、水害は大変だろうに今は何もできないけど、そっとエールを送り続けよう。。
とにかく僕は早くこの長崎を脱出して、みんなとまた歌いたい。
7月9日

 僕は今までいったいどれだけの本を読んできたんだろう?

何か感じた世界の作家は、ダンテ、ゲーテ、ジイド、ヘッセ、カフカ、カミュ、キルケゴール、トルストイ、ドストエフスキー、ニーチェ、くらいか。
日本ではほとんどの文庫本は読んだはずだが、大江健三郎、加賀乙彦、辻邦生、川端康成、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、なんかが思い出される。
(余談かも知れないが、漫画家だがジョージ秋山さんも面白かった。他にも少年マガジンや少年ジャンプなんかにも確か面白いのがあって喜んでみてた記憶がよみがえる。)
とにかく私は彼ら大作家たちから何かを感じてきたはずだが、いま思い返すと、どこまで深く共感していたかより、懐かしい、という気持ちが何より大きい。でも、大きく違うのことがある。私は、あんな長編を書かないだろう。詩で充分。オペラは仕方ないにしても、あんなに長く書いたり人に読ませたりすることは出来ないな。
それに関西にいるころはあちこちに足を延ばして、美術館巡りもしたなーー。ダリの絵なんかにも面白いと思ったものだ。好奇心だけだったが。
そして何より音楽。
何もわからず、クラシックを自分のものに、と高校生の頃バロックからロマン派迄クラシック音楽にどっぷり浸かり切った時期もある。
その中で忘れもしないのが、ベートーベンの弦楽四重奏。
たった4人の演奏で、ここまで僕の心を揺り動かしてくる凄さ!
これが一つの大きなきっかけとなって、音楽の世界に飛び込んだつもり。だった。
ところが飛び込んでみて、想像していた音楽界とのギャップに、どうしようもない違和感を覚え続けていたのも確か。これじゃ、音楽は音楽界のもので、みんなのためのものから遠ざかってるだけ、このままでいい訳がないーーー。こうして東京オペラ協会が生まれた。
(これも余談だが、トルストイが最晩年に「芸術とは何か」で特に音楽界の在り方を痛烈に批判しているのを、みんな知っているんだろうか?嘗ては岩波文庫や角川文庫に収められていたのだが、何故か今は廃版になり、全集の中でしか読めなくなっている。音楽界の為か?)
そして今、私が一番大切に思うのは自然農法で知られる、福岡正信。
東京オペラ協会を立ち上げてみたはいいけれど、この活動を黙殺する音楽界から孤独感を味わっていた頃だった。彼の「わら一本の革命」を持ってきた弟子がいて、それを読んだ時の感動は忘れられない。ココにも同じように思っているこんな人がいたのか、とどんなに勇気づけられたか。
長い間付き合う中で恐らく最後まで彼は、傍に居る私のことを分からん人と思っていたかもしれないが、これから私は彼とともに生きてゆきたいとさえ思っている。
みんな彼の本を一冊でもいいからどれか真剣に読んでみてくれないかな?きっと誰も読んでくれないだろうなーーー。
彼はすべて無を唱え、私は空で何物にも捕らわれず自由に生きる、という感じだが、それはまあどうでもいい。私も彼も名もなくていい。
ただ、彼の感じた無は私とも完全に共有していて、これからもそれを歌うことで楽しく広げていってみたい。みんなもたまには余計なしがらみから解放されて自由に歌い演じられると、こんなに愉快でいられることを。
7月15日

 今いる長崎医療センターには

デイルームという名のパノラマ付きの部屋があるのだけど、どこかのリゾートホテルにいるような気分になるところだ。
そこをまるで僕専用の書斎のように使わせてもらっている。贅沢の限りで申し訳ない。
生まれて初めて、同じところに一か月以上という滞在になるので、ゆっくり考えごとしたり、Youtubeを使わせてもらってあらゆる種類の音楽をマイペースでランダムに聴いて楽しんでいる。
また10階にある屋上庭園に行っては、まだ歌える状態ではないのだけど、新しく作った歌を歌ってみたり。
各地や世界は大変なのに、僕はこんなに幸せでいいんだろうか?
自分はこれから何をしてこの世界にお礼できるか?
それを考えるチャンスを頂いたのかな?
7月18日

 トルストイのことを

知らない人はいないだろうけど、彼が最晩年に書いた「芸術とは何か」を読んだ人はほとんどいないのではないだろうか?
その中で彼は芸術をこう定義している:
「一度味わった心持を自分の中に呼び起こして、それを自分の中に呼び起こした後で、運動や線や色や音や言葉で現わされる形にしてその心持を伝えて、他の人も同じ心持を味わうようにするところに、芸術のはたらきがある。芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見える印を使って自分の味わった心持を他の人に伝えて、他の人がその心持に感染してそれを感じるようになるという人間のはたらきだ。」
翻訳の限度もあるけど、いかにもトルストイらしいくどい言い回しだ。しかし簡潔に言うと、自分が受けた感動を何らかの方法で他の人と分かち合うことだろう。
それからこんなことも書いている:
「我々の社会で偽物の芸術を作り出すようになっている条件が三つある。その条件というのは、(一)芸術家がその作品を渡す代わりに受け取る相当な報酬、又それを元とした芸術家の職業化、(二)芸術評論、(三)芸術学校だ。」
これを読んだら戸惑う人がほとんどだろう。しかしこの本の中ではその理由が徹底的に暴き出されている。読んでいただくしかないかな。
もう一か所書いておこうか:
「本当の芸術作品というものは、それを味わう人の心の中で自分と芸術家との間の区別、いや自分と芸術家との区別ばかりではなく、自分と同じ芸術作品をあじわうすべてのひととのすべての区別もなくしてしまう。こういう風に自分自身が他の人たちとの区別つまり孤独から抜け出すこと、つまり自分自身が他の人たちとひとつになるところに、芸術の主な引力と特徴があるわけだ。
ひとがこの心持になって、作りての精神状態に感染して、他の人たちと自分が一つになった感じる場合に、この状態を表すものは芸術だ。この感染力がなくて、作り手と作品をあじわうひとたちとが一つにならなければ、芸術もなくなってしまう。感染性が疑うことのできない芸術の特徴だというばかりでなく、感染性の程度は芸術の価値の唯一の標準だ。」
これは何か感じてもらえるだろうか?
最後に:
「現代の芸術の務めは、人間の幸福は人間同士が一つに結びつくことだという真理を、理性の領分から心持の領分に移して、いま支配している暴力の代わりに、神の支配、つまりわれわれみんなで人狼委の生活の最高の目的とされている愛をしっかりとたてることだ。」
もう充分かな?
ここには独り言を書いてるつもりだったが、この「芸術とは何か」を読みたくなった人が一人でもいるかな?
この本は、岩波文庫や角川文庫でも出てたので、ある大学で私が受け持っていた現代芸術の講座で学生たちに強制的に読ませ感想を提出させたこともあるが、今絶版となっている。
当時問い合わせてみたら、曖昧な返事しか返ってこなかったことを思い出す。職業芸術家たちが困るからかな?
僕が書いた「オペラによる国際交流」や、「ユニバーサルデザインオペラ」などの論文は大手の新聞社が何度か取り上げてくれたこともあるけど、この「芸術とは何か」についての論文は避けられてしまった。どう思うか?
7月20日

 現在の宗教界。

長い人類の歴史の中、神の名のもとに如何にたくさんの宗教団体が生まれ、世界各地に広がってきているのだろう?
しかし世界各地の戦争はこの宗教争いが根底にある。痛ましい。

日本の中では各宗教が平和に共存してるようだが、日本でもいったいどれだけのお金と労力が費やされてきてるのだろう?
日本各地で広がっている宗教界も本来、人を導き、安心して死ねるように、との意図はあったかも知れないが、現今は程遠いように思う。

今までも何度か指摘してきたのだけれど、神を信ずるのに大教団を作ったりお金が絡む必要はない。人々にはそれが必要だ、神を忘れてしまうから、という理由でここまで広がってしまった。
それが必要なのは教団関係者の保身のためにあるだけではないか?

ここに入信したら、あなたは幸せになれますよ、今この教団お金を出せば天国に行けますよ、お金さえ出せばあなたの罪は許してもらえますよ、などなど全くの嘘がまかり通っている。これを朴っておいていいのだろうか?

人間は罪深きものだから神様や仏様に許してもらいたい、と何千年も願い続けた現在。
しかし考え直してみよう、本当に人間は罪深いのだろうか?
確かに生きてゆくとき、多くの人を傷つけることも多々あるだろう。しかしそれだけではない、多くの人々を助け、一緒に仲良く楽しむこともしてきたのだ。
人間の一つの行為は、同時に人を傷つけることも人助けになっていることもある。だから人間のすべての行いは、これはいいこと、これは悪いこと、と簡単に決めつけることは出来ないのだ。

もう一度だけ。
神はお金なんか必要としない。

みんなに呼びかけよう。
自然が神だよ!
だから余計な心配はほどほどにして、こうして自然に抱いてもらっていることに喜びを覚え、感謝してみんなで楽しく愉快にやってゆこう!
7月25日

 愛について

何年か前に自費出版した「エドワードエッセイ集」にも載せたが、若い頃書いた自筆詩集「今、滅びゆく世界に」の中に、愛は抱くこと、と書いた記憶がある。

ふと思うに昔、日本には愛という言葉は使われていなかったのではないかな?
ご大切様、という言葉が使われていたのではと勝手に推測している。
貴方を大切にしたいという思い、それが愛と考えるといいな。
人であれ、物であれ、思想であれ、それを大切にしたいという気持ちを愛と呼ぶならわかりやすくないか?
愛は抱くこと、とも通じ合う。

家族を大切にしたい。
友を大切にしたい。
貴方を大切にしたい。
夢を大切にしたい。
人間を大切にしたい。
苦手な人も大切にしたい。
平和を大切にしたい。
ユニバーサルデザインオペラを大切にしたい。

大切にしたいーーーー。無限に広がるな。
大切にしたい、という思いが広がりますように。
7月28日

 心の支え。

50年余り前。20歳だった親友が癌で死んだ。
死ぬ前の半年余り、彼の体がやせ衰えて死んでいく様子をじっと見つめ続けた。また「僕は今から大きな仕事を出来るよう、しっかりした大きな土台を作ったところなのに、今なぜ死なないといけないのか?悔しい、死にたくない。」こんなぎりぎりの会話も含め、いろんな世界観、人生観について話をした。
そして彼は、僕への遺言をこう残した。「神は最も耐えうるものに最大の試練を与える。」
彼が苦しんだ以上の苦しみなどありえない。抱き続けたこの想いが僕の心の支えになってきたことを、ふと思い出している。
彼は今も僕の中に生きているのだ。
ありがとう!
7月30日

 この長崎医療センターに来てひと月余り。

もう8月。
長い隠棲生活になっているが、勝手に占領してしまった病室隣りのパノラマ付き臨時私設書斎を使わせてもらって不思議な日々を過ごしてきた。
毎日のタイムテーブルとして、朝食は7時半、昼食は11時半、夕食は17時半。そして体温、血圧、血糖値、等を看護師が何回かはかりに来るほか、3人の担当医の訪問が不定期に入るが、それ以外は何をしていても許される。
基本的に夕食後、センター内を6000歩目標にして歩き回ったたり、様々なストレッチをして退院後の復帰に備えている。実は入院中に64キロ台だった体重が8キロ近く落ちているので、退院すれば元の戻すつもりだ。

さて、ココでさせてもらった恩恵について記しておきたい。

まずYou Tubeのお陰で、興味があったいろいろなクラシック音楽を改めて聴き直せた。
古代ギリシャ音楽、グレゴリオ聖歌、ヴィヴァルディ、バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューマン、ブラームス、メンデルスゾーン、マーラー、ショパン、リスト、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ラフマニノフ、シベリウス、ホルスト、ガーシュイン、ジョン・ケージ、等。
演奏形態も、シンフォニー、オペラ、ピアノ協奏曲、歌曲、ピアノ曲、弦楽四重奏、無伴奏組曲、と様々だ。不思議とオペラはほとんど聞かなかった。
それにしても人間は古代ギリシャから、バロック、そして現代音楽に至るまで、何といろんな音楽を創作してきたことか。

日本の少し古い歌謡曲もよかった。メロディーも言葉も洗練されていて心地よい。
山の煙、アザミの歌、桜貝の歌、などなど。異国の丘や戦友も思い出される。
世界各地の民謡も聞き直した。ロシア民謡は若い僕の愛唱歌だったし、フォスターの歌曲は今も新鮮だ、聞いていると心に深く響く。

映画もチャップリンのほか、興味が湧くのを選んで20くらい観たかな。しかし、映画作りにかかる、膨大な時間、労力、経費のことをどうしても考えてしまう。あんなにかけなくてもいい映画が出来ると思うのだけれど。

読書では、カミュ、ドストエフスキー、ニーチェ、トルストイ、等で、何故か日本文学は今回あまり読んでいない。ただ、自然農法の福岡正信さんの本が今一番親しい。植物図鑑も置いてあるが、何しろ山に行けないのであまり見ることはない。

少し作曲もした。ここの10階にある屋上庭園で新作をそっと(?)思い切り歌い、録画もしてみた。屋上なので下の病棟には聞こえていないと、勝手に思って。
体重はかなり減ったものの、不思議にまだ歌えそうだ。
ついでながら、初心者のためのフルートエチュードも気まぐれに作曲した。

今日も独り言を思いつくまま。
8月2日

 若い頃を再び思い出す。

自分は何をするために生きてゆけばいいんだろう、と素朴な疑問を持ち続けていた。人生のはっきりした目標を見つけられないまま、取り敢えず哲学の道を歩み始めようと思った時期がある。それに比べ周りのみんなは、それぞれに将来歩んで行く道を既に見つけ、しっかり向かっているように思えた。大学受験の頃だったが学生運動が盛り上がったころでもあり、日本で初めてデモに参加した高校だったし、世の中をよくする為に彼らといろんな議論もした。結局彼らは自分がやるんだというより、誰かがやってゆくのを横から見守り、手助けできることがあれば応援すればいいと思い始めていたようだ。受験勉強などに真っ向から反対し青春を費やすなと唱える自治会長だった私に、まずいい大学に入ってそれからやろうじゃないか、と言った同級生もいた。
単純だった私は受験勉強には専心せず志望大学からは落とされたが、僕を落とすなんて愚かな大学だと内心反発したことも思い出す。それよりも、人類の歴史からいろんなことを学び、いろんな古典を身に付けながら、大きく豊かに成長して、そんな人になろうとした。
僕は、世界をよくすることに何よりこだわり、終生の生き甲斐をそこに見出していた。ここでみんなとの距離が生まれ始めたーーー。

それでも
世界を導くのはやはり政治であり、政治こそが何より大切な筈と思っていたので、政治家になろうと考えたことがある。しかしふと気づいた。今のまだまだ未熟な自分の力で政治家を目指すと、何より自分たちの願いをまず要求してくる人々に振り回され、自分が本当にやりたいことを出来なくなり、自分も自由でいられなくなろうことを直感して止めた。

それからは、
政治ではなく自由でいられる芸術の力で貢献出来ないかと考え、作曲家になろうと好きだった音楽の世界に飛び込んだが、音楽界の視野のあまりの狭さにどうしていいかわからない日々が続いた。歌が好きだった私は総合芸術であるオペラならいろんな可能性を追求できると思い、やがて従来の音楽界から一歩置き、自分の人生観、世界観を活かしたオペラという舞台を作ってゆこうと思った。幸い共感してくれる人もあり、そこで出演者たちと子どものように自由にやってゆく道を見出し、殆ど身勝手と言っていいほどにこのオペラ活動を歩み続けてきた。社会に大きな広がりはまだまだ得らなかったが、いろんな作品を作り、賛同者も増えて各地で楽しい舞台を一緒に作っていった。
そんな活動を続ける中、私が抱き留めた大切な感覚がこれだ。

 自由になればなるほど、楽しい世界が無限に広がって来る。
 自由こそ私の天真爛漫の源、自由だと何と世界は光り輝いているか!

完全な自由とは自分自身の我欲からも自由になることだが、今のみんなは完全に自由になると、どうしていいかわからず反って不安になるだろうなーーーー。
それでいいんだ。みんなに僕みたいになってほしい訳じゃない。ただみんなもう少し、世間的な損得勘定や虚栄心を忘れて自由な気持ちでいてくれたら嬉しい。
もっと楽しくなるのにな。

とにかく、
そんなみんなとも仲良く生きていきたい。
このオペラ。いつかみんなが自由の素晴らしさに気づく場にしよう。
8月4日

 もう2〜30年前のことになるだろうか、

ドイツでいろんなオペラを観て回った時、カールルーヘという小さめの町でマスネ―作曲の「ドンーキホーテ」を見たことを思い出した。出演者は間違いなくプロなのだが、超一流を感じさせるものはなく、観衆もそれを承知で楽しんでいた。
後日、ミュンヘンの国立歌劇場で作曲家アルバン・ベルクの「ルル」というオペラを、大好きなハンス・ホッターも高齢なのに出演すると知って驚いて観に行った。現代音楽の内容はともかく、公演はやはり全体に一流独特の緊張感に溢れていた。
さて、一流でなくてはいけないのだろうか?
プロでも、一流、二流ってどこで私は判断したのか?
いつ私は、そんな目で人を判断してしまう自分になったのか?
人と人を比べてしまうのはどうなのか?
確かに、自分が歌ったり、曲を作ったり、台本を書いた時は、最高のものと思っては来た。最高―――?
いつか天正少年使節を回想する「アジアの瞳」というポルトル映画に出演したことがある。
その中でチャップリンの娘のジェラルディンと話す場面があって、少年使節役の歌の音程が外れている、という彼女の指摘に答える場面があって、私から答えるセリフの中に以下の言葉を入れてもらうことになった。
「私たち人間が作るものは完全なものなどない、神の前では素人だ、だから最高のものを作ろうとベストを尽くすんだ。」
と話したら、ジェラルディンが「Beautiful!」と即座に叫んで共感してくれたことを思い出した。
監督とはそのシーンは取り直す予定にしたのに、入れられない儘公開されてしまったがーー。私のセリフが気に入らなかったのか?
不完全な人間。
それでも完全なものを求めるか、だからこそ最高のものを求め続けるか?
人はそれぞれに楽しんで生かしてもらってるんだ。
これでいいではないか。
8月4日

 ≪余禄≫

福岡正信さんが、自分の哲学史観で欧州の近代哲学の祖たちを詳細に分析し、その誤りを痛烈に指摘いったのだが、その中で、デカルトの「我思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉について断言している。もっともらしい言葉だが、これが近代西欧哲学の間違いのスタートだったということだ。
そのどこが間違いなの?とみな思うだろうなーーー。

僕がかみ砕いていうと問題は、我、なのだ。
我、つまり、我って何か?独立した我はあるのか?他から切り離した我ってありうるか?
本来切り離せない命や関係性の連鎖から自分(自らを分ける)を切り取って独立した我、(切り取った瞬間からもととは違うものになっている)を我、と気取っただけでは?

すべては繋がっている、というかすべてが一体で、分けたら別物になっているのに、分けた一部を見て人は分かった気になりたがる。

しかし、分ける、分かる、ってどういうこと?
とにかく、何かを理解したと思った時、人は分かった、という。
つまり大きな分けられないのの中から、一部を無理やり切り取った末梢の部分を理解した、つまり分かった(分けられた)と言ってるんだね。何かを分けることによってしか、私たちは理解できたつもりになれないから。

本来人間は何もわからない不可知である、とはあの哲学者カントも言ってるんだけど。

ソクラテスの無知の知。
福岡さんは一切無。
僕は、すべては自由と薦めたいけど。

 ≪余禄2≫

現代の危うさ

いつの時代も多くの人々は自分の置かれている状況に不満があれば、誰か他にヒーローを求め夢を託したがる。余裕を持って日常の周りに目を向ければ、そんな必要はないのだが。

ヒーローに憧れること。
ある部門で突出した能力を持った人が何らかのきっかけで、マスコミから前代未聞のヒーローにされてしまい、スーパースターとなってもてはやされ何十万何百万の人たちに影響力を持ってしまう人がいる。結果その人は、いつも自分の虚像にこだわり、膨大な人々から憧れられて満足するものの、それに応えるべく振舞い続けるが、自由を失い監視されてやがてーーー。
マスコミはこうして彼のことを大々的に取り上げて、みんなに必要以上に興味を持たせ、興味を持ち続けるように振り回す。こうしてスーパースターもマスコミのお金儲けの手先になる。こんなのは想像しただけでも逃げたくなる、嫌だ。
もし自分がしているオペラで本当にこんな大きな広がりが出来てしまったら、今のように自由でいられないだろう。
それはともかく、この時代の中でこんなスーパースターが今までも次から次へとたくさん作り上げられてしまったが、総合的に考えるとどんなスーパースターも一人の弱い人でしかない。みんながスーパースターの出現にあこがれるのはいつの時代も同じこと。しかしファン心理は一時の夢でしかない。

では、人々の日常に目を向けると。
世界の古典の作家や芸術家は今の人々にどう役立っているのだろう?モーツアルトやベートーベン、ゲーテや、ダヴィンチ、日本でも紫式部や世阿弥やなどの作品は?これらの本当に優れた人たちの作品は残るべくして残ったのか?残って後世に指し示した道は、一般の人々の生活に生かされているか?
たまたま残っただけで、残らなくても人類の歴史の流れが変わるわけではなかったのでは?例えばモーツアルトがいなかったら今のクラシックファンはクラシックを好きになることはなかっただろうか?

また確かに釈迦やキリストのように更に長く人類の歴史に名を留め、何千年とその言葉が遺っている人もいる。しかし、たまたまそれも偶然であって、他にも無限に同じことに気づき、意味深い言葉も遺してきた人も無限にいただろう。
やがてすべて忘却の彼方に。永劫回帰。

 ≪余禄3≫

現代日本人は世界情勢にどれだけ関心を持っているのだろう?

テレビやネットだけの情報で充分わかってると思っているだろうし、日々の生活では忙しく改めてそんなことは深く考えたくもないか?
基本的に日本人は、世界に関心を向けることより、自分や隣人の心の内面に関心を向ける人が多いように思う。しかしそのためか、普段の職場や学校で対人関係に傷ついている人が多いようだ。負った心の傷ばかり見つめていくと、それだけ悩みも無限に広がるものだから。

それはともかく、近頃の世界情勢。
30年位前だっただろうか、フランスでナショナリズム(国家主義、ナチス)が入り込みかけていた時に多くのフランス人をはっと気づかせ、それを早めに封じ込めることが出来た、といういい短い絵本がある、「茶色の朝」。
ずるずると悪い流れに引きこまれていくのに気づかず、気づいた時は遅すぎる。というの内容だが、戦争前のどこにでもありそうなことだ。ナチスの迫害に会ったユダヤ人たちの多くもそうであったろう。現代日本人も日常を楽しんでいることは平和でいいようでもあるけど、実は危険がいつしか陰に伴ってきていることに気付くことはない。
最近の大国はじめ多くの国の指導者が国家主義を全面に押し出している。このことについて、みんなどう思っているのかな?
どう思っていると言われても、それはそれで仕方なく、私たちは何もできないよ。でお終いか?少し余裕のある方だけでもいい、「茶色の朝」にならないように、もう少し関心を持ち続けてくれないかな。

このような国家主義、ナチズムが
今世界に広がってきていることにコメントしておきたい。
ドイツでナチスが台頭した時もそうだったが、国民の多くの不満が膨らんだ時、指導者は大多数の支持を得るため他の誰かが悪い、自分たちの国家が最高だ、と国民に吹聴し信じ込ませることが多い。戦後の中国や韓国の国民教育でも、戦時中の日本が犯した罪から反日感情を深く植え付け、我が国はもともと素晴らしい国なのだと、国民感情をまとめようとしたことは容易に推し量られる。
その後の日本の謝罪が不誠実に見えることに対しても、日本は悪いことをしたのに反省もしていない、日本人は謝らない、と日本人の気持ちを決めつけ、反日感情を煽り続けてきた様に思える。
実際は日本人にもいろいろな気持ちがあるのだが、それを汲み取ることはなく。

特に韓国での従軍慰安婦の問題。
日本人の多くからすると、従軍慰安婦について韓国の人々が何故いつまでも、日本ははっきり謝っていない、謝れ、謝れと迫るのか不思議なのではないか?
想像だがそれは何より、慰安婦だった人たちは自分の人生に対して誇りを取り戻さないと、このまま死にきれない気持ちでいるのが大きいのではないだろうか?日本や日本兵がしたそれ以外の暖かい様々のドラマもあっただろうに、悔しい辛いという感覚だけを残して増幅させてしまう。自分たちはそんな暖かい話にはもう気持ちを向けられない。またそればかりを考えるような環境を、周りの人々や政府によって固定観念のように植え付けられ、彼女たちの中に育てられてしまったのではないか。当時日本人と仲良く出来たことがある人も、それを発言するのは憚れる雰囲気になっただろう。
日本人も例えば想像してみてほしい。時代の流れで逆の立場になったとし、日本人女性がやむを得ずどこかの国の兵士たちの慰安婦になってしまったら?その人が死ぬとき何を考えるだろうかと?
慰安婦のことだけではない。戦争中であれば日本兵は確かにもっと酷いことも、悲惨な体験もさせたこともあっただろう。でも心温まる話はなかったであろうか?いったいどんなドラマがあったのか、私たちはすべてを知っているだろうか?
誰の人生にもいろんなことがある、その中で何を忘れ、何を忘れないか、それを決めるのは自分だけれど、周りからもそう仕向けられたこともあるのに気付いているか?
戦争が過酷な状態になると、どんないい人も人でなくなり鬼畜のようになる。だから戦争は起こしてはいけない、というのが父から私へのただ一つの数少ない言葉だった。 戦時中にフィリピンにいた父、立派だった人が極悪人に変わってしまうのを見てきたのだろう。

領土問題についてもコメントしておきたい。
アメリカや中国のみならず、ロシアもどこの国も領土について自分たちの主張を曲げ譲歩することはないだろう。どこの国も領土をさらに広げたい、それによる権益を確保してゆきたい、と考えている。指導者は、抱えている多くの国民の支持を得なくてはならないから。

しかし一度考えてみてほしい。大昔はもともと国家なんてなかった頃、領土問題もなかったはずだ。しかし多くの人々を抱えた国になってくると領土という観念が生まれてしまうのも仕方ない、昔からロシアの南下政策が変わることはないし、力を持ち始めた中国が南シナ海に権益を確保してしまおうという狙いも当然。日本が戦時中、国益を広げようと満州などに国家を作ってロシアの南下政策に対抗したのも当然。

今も問題になっている日本海の竹島や尖閣のことに付いてひと言。
いつから誰がそこに住んでいたかが明確になればそれで明快な答えが出るのだが、誰も住んでいなかったのなら領土を主張し合っても仕方ない。
例えば竹島について、こんなことは考えられないか?2000年前に中国や韓国の人が何年か何人かで住んだことがあるけれど、ここではやはり生活できないからと帰国してしまったことがあるとする。その1000年後、同様に日本人がやって来て何年か何人かが住んで、やはり日本に帰ってしまった人がいる。そしてはっきりとその証拠がなければ、領有権などどちらも主張できまい。
そもそも沿岸部ならともかく、自国民の誰も住んでもいなかった遠くの島を自国のものだと主張することはどうなのだろう?
そこで例えば提案だけど、竹島などはいっそどこの国のでもない世界共有の島にしてしまってはどうか?どこかの国が勝手なことをしないよう「平和の島」とでも名付けて、国際社会が監視できるようにしておけると面白いのではないか?

上記のことはすべて、不安を煽り立てられた世界中の人々の我欲が膨らみ、その目先の民意で選んだ指導者にはそれを強く求め為だろう。しかしそんな目先のことに振り回される指導者では人々にあるべき道を指し示せない。我欲でいっぱいになった人々による民主政治?このままでいいのか?
一人一人の意見がしっかり熟成されたものではない今の民主主義はもう危うい。
民主主義の崩壊の前に、人間一人一人が自分たちの周りのみならず、世界各地の人々のことを少しでも想像できる余裕を持った人にまずなってほしい。
今の儘では仮に人々を導ける指導者が現れかけても、キリストのように十字架にかける前に足を引っ張って引きずり降ろすだけだろう。
みんな誰もが冷静でしっかりとした目を持ち、諸問題を間単に決めつけないでほしい。そして国家主義がじわじわ広がってきていることを見つめてほしい。
愚集は経験から学び、賢者は歴史から学ぶと、言った人がいるが両方とも大切にしながら
謙虚でいよう、深い情熱を胸に秘め、冷静であれ。
今も取り組んでいるオペラで、こんな思いを伝えていけないものだろうか?

そうだ、思い出すことがある。
僅かの穀物で生きる鳥に余分な食物を与えても振り向きもしない。満腹したライオンは鹿をもう追わないし、しかもその傍で平気で鹿は草を啄んでいる。
不安を煽られた人間だけがあたふたしている現代ーーー。
他国の圧力や恐怖に戦々恐々とし、対抗しようとする人たちには、僕はノー天気な馬鹿者か。
非暴力を唱えたキリスト、トルストイ、カミュ、ガンジー、キング牧師、私は彼らが好きだ。


   2020年8月5日

 石多エドワード